憧れの穂高
「長野の奥穂高岳で下関58歳転落重傷」
平成16年7月29日午前9時10分ごろ、長野県の北アルプス奥穂高岳(3,190メ−トル)の登山道で、下関市小月町、会社員川ア京子さん(58)が約50メ−トル転落した。川崎さんは通りかかった長野県警の山岳遭難救助隊員に救助され、民間ヘリコプタ−で同県豊科町内の病院に収容されたが全身打撲で重傷。豊科署によると現場の登山道は足場が悪く滑落が多いという。川アさんは家族2人と、27日に上高地から入山。穂高連峰を縦走後、29日に下山予定だった。
以上が7月30日付の山口新聞の記事である。いわゆる、山登りが趣味の者にとって北アルプス、中でも穂高に登ることは一種の憧れである。小生も家内も例外ではなく、一度は登ってみたい山と常々思っていたところである。小生は一昨年4月で会社を辞め、かねての計画どおり、ゆとりある?老後の人生を踏み出し、7月は、屋久島、縄文杉を訪れ、昨年4月にはドイツ、スイス、フランスを旅し、7月に穂高へと向かった次第です。
7月26日午後8時中国自動車道小月インタ−を出発、途中仮眠をとりながら、翌朝8時頃飛騨清見インタ−到着、平湯温泉でシャトルバスに乗り換え、上高地に午後1時頃到着、予定よりも約1時間遅れたため急いで昼食をとり、登山届けを出して横尾山荘に向かう。(登山届けの場所に山岳保険の受付の方がいなかった為、保険加入を忘れてしまった。)午後5時頃横尾山荘到着、周囲は薄暗くなっていた。その夜は札幌から来たという女性をリ−ダ−とする3人と同室となり、話が弾む。その一行は今日、槍ヶ岳に登り、明日は北穂高岳から奥穂高岳へと縦走し、さらに前穂高岳へと向かうということで、そんな危険なコ−スをよく登れるものだと感心する。
翌朝28日午前6時横尾山荘出発。梓川沿いに登り7時30分頃本谷橋到着。これからが本番の山登りコ−スとなり、10時過ぎに涸沢ヒュッテ到着。このヒュッテで有名な生ビ−ルとおでんを食べる。半日歩いた後の生ビ−ルのなんと美味しいことか!11時出発、涸沢カ−ルを横切りザイテングラ−ド取付へ1時頃到着。これからが最大の難所ザイテングラ−ドの登りである。怖い箇所は岩壁に身を寄せるようにして登り、午後4時頃穂高岳山荘に到着。360人収容の山荘だが夜は寝返りができないほどの満員です。翌朝29日午前6時奥穂高岳山頂に向かって出発。昨日の晴天と打って変わってガスがかかり何も見えない。山頂からの景色を楽しみにしていたのに残念でならない。7時頃山頂到着、長年の夢がかなった瞬間です。8時穂高山荘に戻り、ザイテングラ−ドを下り始める。一度通った道のせいか、それとも少し高山病に罹っているせいか、登りの時の怖さを忘れて家内と息子がどんどん下り始める。4分の3以上も下りあと200メ−トル位のところで、女性の助けを求める声が聞こえる。”誰か助けて下さい”何か聞き覚えのあるような声なのでよく聞いてみると家内の声のようだ。まさかとは思ったが急いで声のする方へ下っていったがどこで滑落したかわからない。しばらく行くと息子が待っていたが、家内とは思っていなかったようで、それからが大変でした。下山する人に涸沢にある遭難救助隊に連絡してくれるようにたのみ、そうこうしている間に、後方から下山してきた高校生?を2人連れていた学校の先生らしき人が転落している場所を見つけてくださり、息子をその場所に行かせて救助を待つことにした。待つというのは長いもので、今か今かと待つこと2時間ばかり後、ようやく救助隊の方が2名到着した。長野県警の山岳救助隊員の方で、北穂高岳を巡回中に家内の声が聞こえて駆けつけてくださったものでした。早速2人は落石の多い、ごろた石の中を命がけで登っていき遭難現場に到着、応急処置をした後、近くにいた民間ヘリコプタ−に無線で連絡、無事救助されたのです。家内を発見してくださった先生らしき方と遭難救助隊員の方たち、そしてヘリコプタ−に一緒に乗って救助に駆けつけてくださった山小屋の方たち、本当に感謝に堪えません。その後、家内は豊科赤十字病院へ運ばれ治療を受けたわけですが幸いにも頭部裂傷、右肘脱臼、全身打撲ということで済み、本当に奇跡的に一命を取り留めることができました。約3ヵ月でほぼ完治し、現在は元気にまた職場に復帰しています。「命があったということは神がまだ君を天国に必要としていないのだよ」と私は家内に申しています。
「人間万事塞翁失馬」……広辞苑より……この格言を教訓にこれからを生きて行くつもりです。