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5月5日。再度、五家荘入りしました。昨日の雨がうそのように晴れ上がった1日で、昨日は辺り一面真っ白だった国道445号線もご覧の通り、すばらしい眺めです。 また、昨日はすれ違う車もほとんどなかったのですが、今日は所々に設けられた離合所には車を止めて下界の眺めを堪能している家族連れや「んなデカイ車でこんなトコ走るな〜」と言いたいような重装備の4WD車としばしばすれ違ったりします。
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五家荘の一つ、樅木(もみぎ)の集落を国道から見下ろした写真です。樅木は藤原道真の子孫左座家が藤原の追討を避けて入った地と「肥薩国史」に記されているそうです。 五家荘観光ではこの樅木が中心となっているようで、五家荘インフォメーションセンターがあって、観光客に情報と食事の提供を行い、民宿もあります。また、椎葉への林道秘境ルートへの出発点でもあります。 |
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これは泉村の五家荘インフォメーションセンター。五家荘の情報が得られるとのことで立ち寄ったのですが、内容的には今ひとつでした。 五家荘の観光ポイントを示した立体地図や付近の四季折々の風景、特産品や森に住む動植物が紹介されています。また、泉村を紹介するビデオの放映も行われています。
同じ敷地内にかなりの人数が入れる食堂があり、山菜や川魚料理を味わうことが出来ます。 |
五家荘の一つ、椎原(しいばる)の風景です。椎原は九連子(くれこ)、葉木(はぎ)と共に、平清経の孫3人が緒方を名乗って隠れ住んだ地です。
ここには下の写真の緒方家の旧家が内部を見学できる状態で保存されています。緒方家を管理しておられる方(清経の末裔は熊本の市街地の方に引っ越して村を出ていっておられるとのこと)の話では清経は壇ノ浦の合戦後、伊予(愛媛県伊予市)に渡り、同じく現在の愛媛県は八幡浜から大分県のまいづる(?)に渡り、湯布院を経て(近くに大分県緒方町というのがある)矢部町へ至った後に五家荘を開いたそうです。
清経自身は、現在の椎原緒方家よりもさらに山奥の白山という山の入り口付近に住んでいたそうです。現地は現在は何もなく、清経が住んだ地の立て札がだけがあるようでした。緒方家に現地の写真が展示してあります。
もともとは家族もこの山奥に住んでいたようですが、孫の代になってその大家族が一所で暮らすことが難しくなり、上述の3つの集落を開いたとのことです。清経自身は五家荘に降りてくることなく、白山で終わったようです。
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現在の緒方家は約270年ほど前に建て替えられた家屋で、内部に隠し2階を持つ大型の茅葺屋根の家屋ですが、内部はカラです。緒方家には清経の遺品が伝えられているそうですが、現在の緒方家の家屋が重要な遺品を展示するに必要な設備を備えていないということで、それらは村によって保管されているそうです。緒方家の内部に展示室を設置して公開する計画はあるそうです。
ちなみに、ここから一山越えると(一山といっても前ページのような車で2〜3時間かかるような大行程ですが)鶴富姫の伝説の地、椎葉です。管理人さんに椎葉と五家荘の関係について尋ねてみますと、壇ノ浦から四国を経由して五家荘の付近までは、現在の五家荘と椎葉の一族は一緒に行動していたのではないかとのことです。
源氏の追討を避けるためには、あまりに大所帯では目立ちすぎることから、五家荘と椎葉にあたかも分水嶺が水の流れを分けるように、九州中央山地の西と東に平家一門も別れたのでしょう。
椎葉の鶴富姫伝説については、別のページに詳しく書きましたが、清盛の孫の鶴富姫と頼朝の使者那須大八郎(扇の的の那須与一の弟)が恋に落ちましたが、一方、五家荘では、扇の的で扇を支えた玉虫が那須与一の嫡男と恋に落ちます。
ちなみに、安徳天皇がこの地に来たという伝説はないか尋ねたところ、「そのような伝説は聞いたことがない」とのことでした。
例年だと、ちょうどツツジの美しい季節なのだそうですが、今年は暖かくなったり寒くなったりが激しく、開きかけたツツジのつぼみに霜が降りてしまい、咲かないうちにつぼみが落ちてしまったそうです。緒方家の茶畑も、茶の葉っぱが黒くなってしまったと管理人さんは嘆いておられました。
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