厳島神社は市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命を祀っている。 御社殿の創建は推古天皇元年(593年)、現在の規模は約800年前に平清盛の造営したもの。 丹塗桧皮葺の変化に富む建物が蒼い海を前に翠の山を背にした景観はまことに美しい。 この島は昔から神として崇められていたので、御社殿を海水の差し引きするところに建てたと言われている。 ここには幾多の史蹟や伝説があり、神事や祭典が数百年来絶えることなく伝わっている。 この神社に寄進された宝物は数も多く、年中その一部を宝物館に陳列している。 |
2000年3月11日に宮島に行って来ました。宮島へ行くのは十数年ぶり2回目です。
もともとは、鈍行列車に乗って尾道観光に行くのが目的で家を出たのですが、宮島の入り口にあたる、山陽線宮島口駅に列車が着くと、何となく途中下車したくなってフラフラと降りてしまいました。時刻はちょうど12時頃で、雨がしとしと降っていました。
宮島口駅からJR宮島航路乗り場までは徒歩数分です。「これくらいの距離、歩道に屋根でもつけてくれたらいいのに」と思いながらテクテク。
宮島航路は頻繁に便があるのでいつ行ってもそれほど待たずにすみます。今回も5分ほど待つと折り返しで宮島行きとなるフェリーがやってきました。
フェリーはまっすぐに宮島方向に海を渡り、宮島に近づくと、岸に平行に航行しますので、進行方向右側を見ていると海から宮島の大鳥居を見ることができます。この日は天気が悪かったので、雲が鳥居のバックの山々に垂れ込め、なかなか良い感じでした。天気が悪くても日曜日ということで観光客も多いらしく、フェリー乗り場の脇の公園にはたくさんの傘が動いているのが見えます。
フェリーは私の目的地の厳島神社からはかなり離れたところに接岸しますので、またまた雨の中を歩かなければなりません。フェリーを下りて案内板の指示の通りに歩いていくと、わざわざ若干の遠回りをして無理矢理土産物品店街の中を歩かされますので、フェリーを下りたらすぐに海側の堤防に沿って歩くのが「コツ」です。ここを歩けば商店街の方からでは見えない大鳥居を見ながら歩くことができます。
参拝料を入り口で払って厳島神社の中へ。昨年の台風の被害からまだ完全に復旧していないようです。今回は「平家納経」やそのほかの資料を見ることができたらと思って立ち寄っていましたので(いや、実際は立ち寄るつもりはなかったのですが ^^;)、お参りだけをきちんと済ませて、あとは足早に目的の宝物館を目指しました。
宝物館は厳島神社を通り抜けていったん外に出た目の前にあります。その脇に平重盛が厳島弁財天の神徳霊験に感服して国家の安泰と家門の隆盛を祈願して手植えした松の幹」が屋外展示してあります。詳しい説明はないのですが、松が近年、枯れたのか自然災害なのかはよく知りませんが、倒れてしまい、その幹の一部分を保存しているようです。これとは別に、厳島神社の正面入り口(観光客用の入り口は裏口(?)ですよね?)近くに、後白河法王が手植えした松の幹も展示されています。
かつて、京都国立博物館で開催された「平家納経と厳島の秘宝展(1972年)」の展示品のような物を期待していたのですが・・・さすがに、平家納経の実物を見ることは出来ませんでした。ただ、大正時代のレプリカの展示がありました。宝物殿の一番奥の薄暗い空間に木枠のガラスケースに広げられた数巻はきらきらと反射して非常に美しかったです。でも、「知盛さんを含め一門33人が、この紙の上に手を添え、筆を走らせた・・・」という感動がありませんでしたので、なんだか、たんなる観光客としてただボケ〜と眺めているだけの自分に気が付いたりするのでした。
厳島について(平家納経と厳島の秘宝・京都国立博物館・1972より)
いつきべの神のしま
いつくしまは、安芸国佐伯郡の海の中にあり、めぐり七里、東西北の三方、地を相さること遠きは四五里、ちかきは一里ぱかりたり。山そびえ、江めぐり、松おいしげり、浦々の名所、旧地、百にあまれり。御社はいぬいの方にむかはせ給ひて、海へつくり出し、百八十間の廊あり、鳥居もまた海に立てり。末社はすべて百二十五杜とかや(厳島道芝記より)
神体山と神体島
神社に社殿が建てられるようになったのは、およそ七世紀から八世紀のころであったと思われる。だからそうした時期よりも前の原始的な信仰形態は、山とか岩とか泉や樹木などを礼拝の対象とする、いわば自然祭祀的な時期であって、これは神社が社殿的な発達をとげてから後とは、そのすべてを区別して考えていかねばならない。
こうした信仰の時期において神の常在する場所としてまず選ばれるのは、聚落の近くからつねに秀麗な山容が望み得られる美しい孤峯である。その山を望み得る地域に住む人々は、自分たち祖先の魂の宿るところとして、この山を神体山と崇めたのである。山は神の籠るところとして常に神聖視され、樹木をきることはもちろん、一定の祭祀期以外は一切の立入も許されない神秘な存在であった。
こうした自然信仰を母体として、やがてそこに神社が発生し、今日に及んできた例はきわめて多い。このような信仰形態を、海浜に生活を営む氏族たちは、魂のよるべき理想郷として、海岸から朝夕に望みみる美しい小島や、雲烟はるかな海上の孤島などにもとめたのである。玄海の孤島沖の島と宗像神社、琵琶湖中の竹生鳥と都久布須麻神社、瀬戸内の厳島神社などはそうした好例である。そしてこれらは陸の神体山に対して、神体島とでも呼ばれるべきものであろう。こうした島を古い文献では「神島」と書いて、かみじま、こうじま、みしまなどと読ませてきたのだが、瀬戸内の大山ずみ神を祀る大三島(おおみしま)なども、もちろん大神島(立派な神の島)の意にほかならない。
こういう古代的な信仰における神体山や神体島はれを総称して神籬(ひもろぎ)と呼ばれ、その聖域は常に禁足地としての清浄が保たれてきたのである。また山頂などの巨大な岩石の露頭は磐座(いわくら)と称せられ、一定の祭祀期には司祭者(巫女)がここに籠って神霊を招き、神人一体となる祭祀がとり行なわれたのである。こうした場所からは祭祀遺物といわれる土製や石製の器物などが発見され、古代祭祀の実態があったことを証明するが、のちここを山宮とか奥宮とか呼んで、次第に後世の神社的な形態へと接近し発展してくる。神体山や神体島には麓から山頂の山宮を拝し、また神をここへ迎えるための祭祀場として里宮が生れてくる。
こうした信仰の「かたち」や「こころ」はいまも琉球あたりに残っている信仰習俗、「お岳」と「お拝」の信仰にみることができるものであり、これはそのまま神体山と里宮の祭祀形態に、またその巫女(ノロ)たちの姿には、古代神道における司祭者の姿と共通するシャーマニスチックな性格をみいだすこともできるのである。
いつきべのしま
そうした古代的な信仰の世界において、祭祀を専門にとりあつかった氏族を斎部(いつきべ)、あるいは祝部(はふりべ)と呼んだ。厳密に区別すれば「いつきべ」は神を祀る職業集団であり、「はふりべ」は葬祭を主に司る職業であったと思われるが、古代においては古墳祭祀とその神霊祭祀とは、相互に深く、相結ばれていたのである。上代の須恵器を斎部土器あるいは祝部土器などと呼んでいるのは、そうした双方の祭祀に使用されていたことを示すものに他ならない。
厳島神社は平安時代初期に編集された『延喜式』の神名帳には「安芸国佐伯郡伊都伎島神社」とみえており、また一書には「伊都支島」の字も用いられているが、いずれにしても古くは「いつきしま」と呼ばれていたことがわかる。これはもともと固有名詞ではないので、「いつきべのまつるしま」といった意味とそのことばからはじまったものなのである。琵琶湖の沖合にある孤島竹生島、ここも『延喜式』の神名帳には「都久夫須麻神社」とみえている。これも「いつくべのしま」がつづまって「つくぶすま」となり、いつか「ちくぶしま」となったとその過程を同じくするものであろう。
厳島の字を宛てたこころには、「いつくしきしま」といったその景観や神秘に対する賞歎の意もふくまれていようが、島の祭祀的な本質からみれば、やはり「いつきべの神のみしま」といった古代的な祭祀感覚に基づいていることをまず知るべきである。この島もそうした古代信仰の世界においては、全島が禁足地であったにちがいない。島の中央にそびえる弥山(みせん)の山頂には、かつてこの島の信仰の中心であった巨大な磐座があり、いまもそこには御山神社(奥宮三社)が祀られている。弥山の名はこの島が中世以降の神仏習合時代に名付けられた須弥山からきたものだろうが、また御山といった神道的な意味とも音通している。山上の各所に散在する巨大な岩石露頭には、いま毘沙門堂や求聞持堂などが残っており、かつての習合時代の面影を伝えている。主祭神市杵島姫(いちきしまひめ)命という名も、もともとは「いつきのしまに祀る姫命」といった意味である。また湍津姫(たぎつひめ)の名も滝津の意に基づくものであり、おちたぎつ水の様相を示すもの、つまりはともに水神の霊力を示す一般的な呼称からはじまるものにほかならない。
島が禁足地であった頃には、対岸から常にこれを望拝したのである。いま宮島口の近くにある地御前(ぢのごぜん)神社はそうした古代的な望拝祭祀のあとを示すものであろう。いまも島の中に墓地は一つも営まれていない。島は神の住居、さらに神そのものとした古代の清らかな姿の一端を物語るものである。島の山麓にある末社の大元(おおもと)神社は、おそらく壮麗な中世の社殿がいとなまれるより前、はじめの里宮の位置を示すものではないかといえる。
厳島神社は縁起伝説としては、推古天皇の朝に佐伯鞍職(くらもと)(のちの厳島神主家の祖)によって祀られ、早くから安芸の国の一宮として佐伯群を中心とする地方的な信仰をあつめてきたといわれているのは、こうした古代的なまた地方的な祭祀がしだいに郡の司や国の司による歴史的な祭祀をうける時代に入ったことを示すものであって、おそらくこのころから、次第に社殿も営まれはじめ、また一般的な風潮によって、神仏習合の信仰形態を形成しはじめたのではなかろうか。
はからずも久安二年(1146)には平清盛が安芸守に任ぜられ、清盛はその職責上からも安芸の一宮に詣でているが、このあたりから安芸の一地方神は、壮大な国家的色彩を帯びて、中央との深い信仰上の関連にとりむすばれることとなってくるのである。清盛は前後六回におよぶ厳島詣をおこない、そのつど、院や門院をはじめ、一族の郎党、上臈を具して、安芸の厳島は、いわば平家一門の守り神としての深い祭祀と信仰を受けることとなってくる。
神々の浄土世界の至宝ともいえる「平家納経」三十三巻は、いうまでもなく厳島神社の本地仏である観世音菩薩のもつ三十三種の功徳にちなんだものだが、それは清盛の願文一巻をはじめとして、一族の貴紳上臈たちが心をこめて如法に書写した法華経(二十八品)二十八巻とその開結二巻、それに阿弥陀経一巻と般若心経一巻から成り立っている。『平家物語』巻三には「入道相国の御むすめ、后に立せ給ふ上は、あはれとくして此御はらに皇子御たん生あれかし、位につけ奉て、夫婦共に外祖父外祖母とあふがれんとねがはれけるが、あがめ奉るいつくしまへ申さんとて、月まうでを始めていのり申されければにや、中宮やがて御くわいにん有て、御産平安、皇子御たん生ましましけるこそめでたけれ」とみえているごとく、平相国のかずかずの悲願はこの善根のうちに秘められているように思われる。
そしてまた善美を極めた荘厳の美は、藤原時代末期における耽美的な浄土教芸術の理想とも通じあうものであり、こうした装飾経を神々の宝前に捧げているところ、厳島は神々の浄土だという観想もそこにはあったのであろう。神々の宝前に経典をささげ、或いはこれを読誦することは、すでに早く奈良時代、神仏習合の発生期からみられてきた現象であるが、そうした神と仏とをひとしなみに信仰しようとした日本人の伝統的な宗教観はここにも働いている。
平家の公達は厳島の社頭に百僧供養の法宴を催したというが、満々とさしこんでくる瀬戸内の潮は社殿を波上に浮かべ、廻廊の万燈ほの明るく波に映えるころ、舞殿に演ぜられる幻想の舞曲と共に、「いつくしき神々の浄土」をここに欣求し、観照する想いはひとしお深まっていったことであろう。秋月に照らしいだされた波上の神殿は、そのまま静寂の浄土世界へと通じていたであろうことを想わせる。平家上臈たちの厳島参籠は、いわば神々と共にある寂光浄土への耽美であったにちがいないし、そうした法悦の心こそが、またこうした夢幻的な経典芸術を作らせる大きな原動力であったにちがいない。
あきのいつくしまへ、建春門院にあひぐして参る事ありき。やよひの十六日京を出て、おなじ月廿六日まゐりつけり。宝殿のさま、廻廊ながくつづきたるに、しほさしては廻廊のしたまで水たたへいり、うみのむかへに浪しろくたちてながれたる。むかへの山を見れば、木々みなあおみわたりてみどりなり。やまにたためるがむせきの石、水きはにしろくしてそぱだてたり、白きなみ時々打かかる。めでたき事かぎりなし(梁塵秘抄口伝集より)
主な祭典行事
神衣献上式(1/1)
祈年祭(3/17)
桃花祭・舞楽(4/15)
桃花祭神能(4/16-18)
講社大祭(5/14)
講社御島廻式(5/15)
例祭(6/17)
管弦祭(旧6/17)
玉取延年祭(8/ )
菊花祭・舞楽(10/15)
新嘗祭(11/23)
御鎮座祭(12/初申)
鎮火祭(12/31)