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イギリスによる彦島租借問題

 東行高杉晋作は、生まれ故郷の萩城下よりも、むしろ奇兵隊創設以来かかわりをもつことになった下関を愛していたようである。だから高杉の遺言とも思われる私信に、『死して赤間ケ関の鬼となり』『赤間ケ関の鎮守とならん』などの字句も見える。動げば雷電の如く、発すれば風雨のごとし、衆目駭然、あえて正視するなし、これは、高杉の性格や行動を最も端的に表現したものとして知られる伊藤博文の撰であるが、土佐の中岡慎太郎の評も適切である、『兵に臨んでまどわず、機を見て動き、奇を以って人に勝つものは高杉東行、これまた洛西の一奇才……』

 その高杉晋作は、彦島にとって大の恩人である。というより、むしろ、近代日本に於ける大恩人ということが出来よう。元治元年(1864年)8月、長州藩はアメリカ、イギリス、フランス、オランダの四ケ国連合艦隊の猛攻を受け、和議に臨む羽目になったが、8月14日、第三次講和条約に於いて、イギリス提督クーパーが「彦島を租借したい』と申し出た。この時の全権大使高杉は、その前上海に渡り九竜島租借の現状を見ていたので、顔面を紅潮させて、これを断ったという。もしもあの時、負け戦ゆえに弱腰となってイギリス側の要求を受け入れていたら、彦島は99年間の租借地となり、この小さな日本の国土も四カ国によって等分に分けられ植民地化していたことであろう。

 相手の肚を見抜く力と、何十年、何百年先を見通す眼力が、生れながらにしてそなわっていた高杉ではあるが、彼はまた、何度も彦島に足を運んで農兵や住民たちとも親しく接して居り、関門の要衝としての地形的な利を心得ていたから、断固これを蹴散らした。高杉晋作が初めて彦島に足跡を印したのは文久3年(1863年)6月8日のことで、結成したばかりの奇兵隊士を引き連れ、島内各地の台場を巡視したが、その後も、8月13日には世子定広公のお伴をして、毛利登人と共に弟子待砲台などを視察している。また、都落ちの五卿が白石正一郎の案内で福浦金比羅宮に参詣したこともあり、勅使、正親町公董や、長府藩主らも各台場を激励して回っている。恐らく高杉は先導をつとめたであろう。慶応2年(1866年)7月6日にも高杉は福田侠平らを連れて来島しているが、奇兵隊結成に際し、隊の軍律を『盗みを為す者は死し、法を犯す者は罰す』という僅かニケ条のみの簡単明瞭さと、『彦島を租借』と一言だけ聞いて烈火の如く怒りこれを断った明敏さには、やはり、共通した何かが感じられて胸が熱くなる。彦島の古老が今でも『高杉さん』と呼ぶのは限りない感謝の気持が込められているからだろう。
(「彦島あれこれ」より)

 


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