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 このページでは、彦島の昔話を紹介します。 


サイ上がり神事について

 今から800年以上も前のことです。魚採りに船で海へ出ていた彦島の漁師が海底に何か光る物がしずんでいるのを見つけました。
 その話を聞きつけた彦島の里人が大勢はまべに集まってきて、大変なさわぎになりました。そのうち、それを引き上げてみよう、ということになり、彦島に住んでいた平家の武者の一人が鉾(ほこ)でその光る物をつきさして、はまべに持ち帰ったところ、それは、丸い形で曇りのない鏡でした。
 鏡の裏面に八幡尊像が刻まれていることに気づいた里人は、「これこそ彦島の守り神だ」と大喜びし、近くの舞子島(まいこじま)と呼ばれる小島にお堂を造り、海から引き上げた鏡をまつって「光格殿(こうかくでん)」と名付けました。
 翌年から、毎年、鏡が引き上げられた日に里人によって、ほうのうのまいが行われるようになりましたが、そのまいは、鏡が引き上げられる様子を再現したものでした。
 鏡がいよいよ引き上げられる時には武者役の里人が「さぁ、上がらせ給え」とさけぶことから、いつの間にかこの神事を「サイ上がり神事」と呼ぶようになりました。


平家(へいけ)おどりについて

 平家の持仏(じぶつ)(現存)をまつっている、西楽寺(さいらくじ)の開祖(かいそ)西楽法師があるときお寺にお参りに来ていた里人の心の内を聞きました。壇ノ浦の合戦(だんのうらのかっせん)で平家が源義経(みなもとよしつね)ひきいる源氏(げんじ)に敗れ、安徳帝(あんとくてい)が入水(じゅすい)してから90年も経ったある日のことでした。
 彦島の里人の多くは平家の落人(おちゅうど)で、90年たった今でも平家の再興(さいこう)の日を心待ちにしながら日々の生活を送っているのでした。
 西楽法師は、平家の再興(さいこう)を願うことももっともなこととは思いましたが、もう現在は鎌倉(かまくら)の時代となり、平家の一門もその中心は壇ノ浦の海に沈み、残った武者も、この彦島をはじめ、全国にちりじりになっており、平家の再興はもはや望むことの出来ないものであることと思いました。
 西楽法師は何日もの時間をかけて、「平家の再興のことは忘れ、彦島の開拓(かいたく)や、自分たちの子孫がこの島で幸せに暮らせるようになることだけを願って、開墾(かいこん)や農作業に精を出すよう、里人達を説得しました。
 里人はなかなか納得しませんでしたが、やがて西楽法師に心を開き、すすめを受け入れました。西楽法師は「良かった、私の言っていることをわかってくれましたか。本当に良かった。(ヤットエー、ソラエノ、ヤットエノエー)」と涙を流しました。里人達も「私たちの未来はすべて法師にお任せして、彦島の開拓(かいたく)に励みましょう(アーリャ、アリャマカショイ)」と誓ったとのことです(十二苗祖の誓い)。
 この時の会話が、毎年の地蔵まつりの踊りに取り入れられ、やがて「平家踊り」へと発展していったとのことです。


minage.jpg (18407 バイト)身投げ岩

 今から800年前、源平(げんぺい)の壇ノ浦の合戦(だんのうらのかっせん)で平家(へいけ)の一門は敗れ次々に海峡に身をおどらせ自ら命を絶ちました。しかし、ある武将の妻は彦島の浜に打ち上げられているところを里人に見つけられ、親切な介抱(かいほう)を受けて奇跡的に命を取り留めました。
 しかし、妻は、その後毎日、助けられた漁師の家の近くの岩場から壇ノ浦を遠くに見て毎日、夫の名を呼びながら泣き続けていました。
 そんな日が数日続いたある日、妻は意を決したように東の伊勢(いせ)と西の浄土に向かって手を合わせたかと思うと、里人が手を出す間もなく小瀬戸(こせど)に岩から身を投げてしまいました。
 武将の妻をあわれに思った里人は岩の上に祠(ほこら)を建て、800年経った今でも供養を欠かしていないとのことです。


姫の水の伝説

 壇ノ浦の合戦(だんのうらのかっせん)で敗れた平家(へいけ)の4人の女性が彦島に隠れ住みましたが、苦しい生活に耐えかね、やがて全員が大瀬戸(おおせと・現:関門海峡)に身を投げてしまいました。しかし、そのうちの一人は浜に打ち上げられ村人に助けられました。が、その女は壇ノ浦に沈んだ平家一門やその後を追った3人の官女の幸せをうらやみ、平家(へいけ)の時代のはなやかな暮らしを思い出して、来る日も来る日も泣き続けました。そして、日に日に女はやせ衰え、ある日と姿を消してしまいました。
 村人達がさがし回ったところ、浜からかなり離れた山中にのどをかききった官女の亡骸(なきがら)がありました。
 村人は彼女の死をひどくいたんで、その地にあつく葬(ほうむ)り、1本の杉を植え、官女の墓を建てました。やがて、不思議なことにこの墓石の下から冷たい水がわき始め、杉は大きな大木となりました。村人はこのわき水のことを「姫の水」と名付け、このあたりを開拓(かいたく)して「杉田(すぎた)」と名付けました。

 


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