彦島の歴史

 このページでは、大昔から今までの彦島の歴史を紹介します。

関連リンク→ふるさと彦島の歴史を学ぶ集い


人間が生まれる前(3000万年前)西山化石層

 西山化石層(にしやまかせきそう)。海に住んでいた生き物の化石と川や湖に住んでいた生き物の化石が同じ所で見つかります。

ここで見つかる化石の種類は・・・
 ハマグリ、まき貝、カニ、エビ、サメなど。

 今、見学できる化石層は限られていますが、実は、道路や工場がある一帯に広く化石層は広がっていて、このあたりが大昔は海だったことがわかります。

 また、これほどの化石が簡単に見つけられる場所は日本でもめずらしく、下関市の指定文化財(天然記念物)となっています。

関連リンク→西山化石層


縄文時代(じょうもんじだい) 1万2000年前〜2300年前

 土器(どき)と火を使って食べものを料理して食べていた時代です。彦島には宮の原遺跡(みやのはらいせき)とよばれる古代の人が生活したあとや、ゴミすて場(貝塚・かいづか)がみつかっています。

 今、西山八幡宮(にしやまはちまんぐう)や西山海水浴場(にしやまかいすいよくじょう)のあるあたりで、古代の人々が魚をとったり、動物をつかまえたりして生活していました。


弥生時代(やよいじだい) 2300年前〜1700年前

 この時代に朝鮮(ちょうせん)から米作りが伝わってきました。しかし、彦島には水田を作るために必要な川がありませんでしたので、この時代には彦島にはあまり人は住んでいなかったと考えられています。


古墳時代(こふんじだい) 1700年前〜1600年前

 この時代に彦島で人が生活していたことを示すものも見つかっていません。この時代は今よりも海面が高く、かなり島のおくまで海水が入っていましたので、弥生(やよい)時代と同じように、米を作って彦島で生活している人はいなかったのではないかと思われています。

 その後は中世(ちゅうせい)まで彦島は古文書(こもんじょ・古い書物)から姿を消します。


中世(ちゅうせい) 800年前〜400年前

 約800年前に、壇ノ浦の合戦(だんのうらのかっせん)が起きました。

 この戦いでは、平家(へいけ)と源氏(げんじ)が戦いました。平家は、当時日本の中心だった京都で政治を行っていましたが、関東方面で力を付けた源氏が京都へせめてきたために、彦島までにげてきたのでした。

関連リンク→平家落人の眠る島

 この合戦で、平家は彦島に城を作って戦いの準備をしましたが、負けてしまい、これをきっかけにして、日本の政治は大きく変わり封建時代(ほうけんじだい)がやってきました。


藩政期(はんせいき)北前船

 江戸時代には彦島は毛利秀元(もうりひでもと)を最初の藩主(はんしゅ)とする長府藩の一部でした。

 住民は「年貢(ねんぐ)」と呼ばれる今の税金に相当するものを藩に納めなければなりませんでした。彦島では年貢として塩を納めるために、瀬戸内海側(せとないかいがわ)に塩田(えんでん)がたくさん作られ、現在も「塩浜(しおはま)」などの地名として残っています。

 江戸幕府は全国でとれた米が大阪や江戸に集まるように、航路の整備を行いましたが、彦島は東北や北海道の米を大阪に運ぶ「西まわり航路」の大切な中継(ちゅうけい)地点として、非常に発展しました。今の福浦湾には、このころ、西まわり航路で活やくする「北前船(きたまえぶね)」と呼ばれる米を運ぶ船が立ち寄り、食べ物の補給をしたり、台風からひ難をしたりしていました。

 彦島はたくさんのお金や人が集まる港町となり、江戸時代から明治時代へと移り変わる明治維新を人間の面から、またお金の面から、ささえることになりました。

関連リンク→彦島の古い地名
関連リンク→西廻り航路


攘夷戦砲台あと明治維新(めいじいしん)

 江戸時代の終わりごろになると、日本に外国の船がやってくるようになりました。しかし、日本はそれまで、外国との付き合いをしていませんでした(鎖国・さこく)し、日本人もいきなり外国の人々や文化と接することは難しいだろうということで、「外国の船を追い出してしまえ」ということになりました(攘夷:じょうい)。

 この時すでに、関門海峡(かんもんかいきょう)を外国の船が行き来していましたので、弟子待(でしまつ)には外国の船をこうげきするための砲台が築かれ(写真)、実際に関門海峡を通過する外国の船をこうげきしたこともあるそうです(攘夷戦:じょういせん)。最初のうちはわけがわからなかった外国も、やがて、日本をぐんかんでこうげきするようになり、結局、藩は外国との戦いに負けてしまいました。

 けれども、この時の戦争の経験があったからこそ、長州(山口県)は、江戸幕府をたおす戦いの技術を身につけ、日本が明治の時代をむかえることが出来たのだと言われています。

関連リンク→攘夷戦砲台跡


大正時代の福浦湾大正(たいしょう)

 北前船で栄えた彦島ですが、その理由は、この時代の船は風を帆に受けて進む帆船(はんせん)でしたので、風向きが悪いときや、台風などの時には港に避難しなければならないからでした。

 しかし、明治時代の中ごろから蒸気機関による船が広く使われ始めたため、途中の港に寄る必要がなくなってしまいました。

 しかし、船の持ち主は蒸気船の時代になっても、港の設備が整っている彦島に寄港(きこう)して、食べ物などの補給をする事を希望しましたが、下関の商人は、大型の蒸気船が港にはいると、これまでの帆船のじゃまになると考え、蒸気船を追い出してしまいましたので、蒸気船は対岸の文字ケ関(もじがせき・現在の門司)に寄港するようになり、彦島の港は船が次第に減っていきました。

関連リンク→福浦港いま・むかし


昭和(しょうわ)

 昭和8年(1933)3月20日、彦島が下関市の一部に合併されました。この時の彦島の産業は工業が8割。その他には、肥料製造、造船、製氷、石油、魚をとるアミ(漁網・ぎょもう)などの産業がありました。


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