攘夷戦砲台跡

 文久3年(1863)攘夷戦に際して彦島島内各地に砲台の構築が行われました。そのうちの1つがこの弟子待の台場です。「彦島風土記」(沢忠宏著)によると「攘夷決行の期限を定めるや俄然島内各所に台場構築が行われ、弟子待も台場を完成させ、連城砲7門を置き、萩より砲術隊・荻野隊の守永弥右門を指揮者として常駐させた。また、長府よりも600名あまりの兵を駐留させ防備にあたるもついに砲火を交えることなく終結したのである。」

 またこのときに弟子待に駐在していた騎兵隊の福田氏が地元の植田、河野、利根各氏とともに海面を埋め立て貯炭場を開設したことが弟子待開発の第一歩となり、後に石油各社のタンクが林立するに至りました。

 写真は石垣の大部分が崩れて樹木の茂った台場跡です。崩れているといってもその美しい石組みの一部は100年以上を経過した今でも海峡の早い潮流に耐えています。すぐ脇に水雷発射基地跡があります。

アクセス:サンデン交通弟子待行き・「弟子待3丁目」下車