弟子待の海岸線と与次兵衛ケ瀬の物語

 この写真はかつては各社の油槽所のタンクが林立していた弟子待の海岸線です。現在、数社の彦島からの撤退により、一部、宅地や向上に転用されたもののそのほとんどは空き地のまま放置されている弟子待の海岸線です。海は関門海峡で対岸(写真右側)は門司です。

 この弟子待の海には昔、引き潮になると頭を出す「与次兵衛ケ瀬」と呼ばれる岩礁があり、関門海峡を通航する船の悩みの種でした。冨田義弘氏の「彦島あれこれ」から与次兵衛ケ瀬に関する記述を紹介します。

与次兵衛ケ瀬

 『また、この渡りの中流に岩山の長きが一つ、水の上わずかに出たり。是を与次兵衛瀬と言う。通船の恐るる瀬なり。如何なる故に名付けしやと問うに、太閤秀吉公朝鮮御征伐の時、肥前の名古屋まで御出陣ありしに、この海を渡り給うとて潮さきに押し流され、御座船この瀬に流れかかり、すでに砕けて海中に沈まんとせしところを、四方より助け船、馳来たり助け乗せ奉り無難に渡り付き給いしとぞ。その時の船頭を与次兵衛と言いしが、大方ならぬ不調法なれば即時にこの瀬にあがり切腹して失せたり。其後、此の瀬を与次兵衛瀬とは名付けしなり。太閤の御座船だに流れたりし事、その潮さきの強きを知るべし』18世紀の後半、全国を周遊して『東遊記』や「西遊記」を書き残した橘南谿は、与次兵衛ケ瀬について、こう記している。この頼は古くから海峡第一の難所で『死の瀬」と呼ばれ恐れられていた。従って海難事故も多く、その最も代表的なアクシデントが豊臣秀吉の御座船によるものであった。それは操船を誤まったもの、秀吉をおとしいれようとしたもの、切腹した、投身して果てた、打ち首となったなど、諸説さまざまであるが、事件が起ったのは文禄元年(1592年)7月22日とほぼ一致している。

 その後、寛文10年(1670年)、彦島の人びとが浄財を集めて「死の瀬」に石塔を建て、『与次兵衛ケ瀬」と名付け、船頭の冥福を祈ったというが、この石塔は海峡を航行する船舶から非常に感謝された。文政9年(1826年)2月下関に立ち寄ったシーボルトは『江戸参府紀行』を書いているが、その中で『ここに時々、気高い舟人の霊が現われるという伝説がからんで恐ろしい光景を呈する」と述べ、多くのカモメやウミウなどの海鳥が石碑に群がっているとも書いている。当時の人々の、無力な者への思いやりと、無数に飛び交う海鳥のさまが瞼に浮ぶようである。この碑は明治43年、関門航路修築の際に取り除かれ、弟子待、唐戸と転々とし、今では門司の和布刈公園に建っている。そして、暗礁群は大正7年、関門海峡改良工事の一端として除礁された。だから、今でも七十歳以上の老人は波間に見えかくれしていた与次兵衛ケ瀬を覚えているという。ところで明治時代の講釈師、玉遊軒風月の十八番は『久留米騒動筑紫の荒浪』という長篇講談で、その大詰めは『海峡の惨劇』と題して、稲葉小僧駒太郎が父母の仇とねらう頼貴公を関門の与次兵衛ケ瀬まで追い詰めて、切腹させるというお話であった。『かくして頼貴様は船中の急病も療治相叶わず、与次兵衛ケ瀬にて病死と布れを。出し……』と玉遊軒風月の名調子が終りに近づくと人々は海峡に思いを馳せたものだという。

アクセス:サンデン交通弟子待行き・「弟子待3丁目」下車