六連島の歴史

1.六連島総論

 関門海峡の西口に位置し、響灘に浮かぶ島。下関市彦島に属し、面積0.70平方メートル。南北約1.2キロメートル、東西0.7キロメートル、最高点106メートルの台地状の地形。地質は、新第三紀の芦屋層群に属する砂岩層を基盤とし、貫入した第四紀の玄武岩が覆っている。多孔質で灰黒色の雲母玄武岩の露頭が見られる。黒雲母と黒色角閃石の美しい結晶が含まれており、国天然記念物に指定されている。
(日本地名大辞典)

 島の西南部には、縄文、弥生、古墳時代の遺跡が存在し、古くから人が居住していたことが証される。島名は「日本書紀」の仲哀紀「没利島(もつりとう)」、「能因歌枕」に「牟都留能志麻」とあり、古名とされる。

 「今俗に毛都礼志麻と云ひて六連島に作り、島大小6つあり、大なるを蟹島という。形似たるを以て名づく。本国豊浦郡に属けり。名義は六連なり。如此島六ツ連なる故に然云うなり」と「長門国志」に地名の由来を記している。中世、戦国期には長門国豊東郡に属し、天正14年(1586)3月3日付の毛利輝元袖判三吉氏給地付立の最初に「一、十石足 六連島 関綾衣木」とある。

 江戸期には、長府藩領となり、東豊浦郡前支配に所属。「村浦明細書」(安政5年・1858)によれば、村高は、田3石余・畑26石余、周囲26町半、南北9町程、東西5町程、家数58、人数335(男171、女164)、牛50、鰯網4、鰡網2、底引網1、船54(網船8、てんとう船5、てんま船12、小てんま船28、二反帆船1)、八ケ久保に台場と焔硝蔵 とある。
 それより先の嘉永2年(1849)、吉田松陰が六連島の台場を視察している。文久3年(1863)には、島内の古塁を廃して新たに要害を選び、新鋭の大砲が備えられた。
(長府毛利家乗)

六連島灯台 明治4年(1871)六連島灯台が完成、同5年11月12日、明治天皇が関西、九州巡航の際に六連島灯台を視察された。六連島は航路上の要地であり、東海上は関門港入港船の検疫錨地となり、灯台の他無線電信局・六連島検疫所・税関監視所・植物検疫所や給油所が設置され、本土との間に連絡船が運航されるようになった。

 昭和38年(1963)年、竹の子島から海底電線が敷設され、島に初めて電灯がともされ、同56年には、竹の子島から海底送水管を敷設、水源は水道に切り替えられた。
(下関市史)

 彦島を中心とする下関市の工業化、都市化の進展に伴い、本土に接近した六連島の農業は園芸化が進み、平坦な台地はよく耕地化され、冬キャベツや夏ニンジンの特産地として知られ、最近では花卉栽培など施設園芸が盛んとなり、市場に出荷されている。近年には、夏期の釣り客やキャンプ客が多くなった。

六連島の所属
中世 長門国豊東郡に所属
江戸期 東豊浦郡前支配に所属
明治4年 豊浦県を経て山口県に所属
明治12年 赤間関区に所属
明治22年 彦島村の大字
大正10年   彦島町の大字(彦島に町政施行)
昭和8年 下関の大字(彦島が下関市に合併)
世帯数 人口
安政5年 1858 58 335
明治16年 1883 57 329
昭和10年 1935 62 360
昭和22年 1947 81 454
昭和30年 1955 69 441
昭和40年 1965 68 358
昭和50年 1975 61 357
昭和60年 1985 56 263

六連島の小字
音次郎、辻、空方、向方、南、南台、伴谷、北、船着、牧、峰ケ久保、高迫、北ノ段、水ノ木、金掛、郷浦

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