六連島の歴史
2.六連島遺跡
下関市六連島字音次郎に所在する縄文、弥生、古墳時代の遺跡。響灘に浮かぶ六連島の西南端に発達した砂嘴に立地し、主要部は標高3.5メートルの島すその湧水帯付近にある。
砂嘴=さし:沿岸流によって運ばれた砂礫が湾口の一方の端から海中に細長く堆積して堤状をなすもの
昭和30年に発見され、33年に発掘調査を実施。古墳時代の遺物包含層が砂嘴のほぼ全域に分布する。発掘された遺構の内比較的残りの良いものに、弥生時代中期の径2メートル内外の円形と、ほぼ同じ大きさの隅丸の長方形をした竪穴がある。
竪穴の底には、破砕した平たい小石を一面に敷き詰め、内部に鳥獣魚介の残滓を含む薄い貝層が挟在した。発掘した地区には各時代の包含層が重なっており、その南淵に人工的に配石された小石と礫や板石が置かれていたが、波浪の侵入を受けており、復元はできなかった。
この南に接した付近には、特に縄文土器が多く、砂層下の旧礫原面にある石の上に波浪でうち寄せられた漂着したいらしい一体の幼児骨が伏臥の姿で出土した。
なお、土師器や須恵器は多く、その包含層も広く点在しているが、遺構らしい物は検出されなかった。採集した遺物は縄文土器、弥生土器、土師器、須恵器などの土器類と、石器や骨格器の他鳥獣魚介の食物残差などがある。また、食物残差の魚類はほとんど暖季のもので、冬季季節風が強く波浪に洗われる低い砂嘴という立地条件と共に、この地の住民は暖かい季節に移り住んだ漁狩猟民であったことを暗示している。
土師器=はじき:弥生土器の系譜につながる、古墳時代以降の素焼の赤褐色の土器。文様は少なく、実用的で、煮炊きや食器に用いるものが多い
須恵器=すえき:古墳時代後期から奈良・平安時代に行われた、大陸系技術による素焼の土器。良質粘土で、成形にはろくろを使用、あな窯を使い高温の還元炎で焼くため暗青色を呈するのが一般。食器や貯蔵用の壺・甕が多く、祭器もある
土器のうちには製塩用の物と見られる高さ25センチ、口径10センチの丸底円筒形のものがあり、内壁に布目痕を有し、表壁は手捏の粗製の土器で六連島土器と呼ばれる。
手捏=てづくね:土器などの形を作るのに、轆轤(ろくろ)や型を用いず、指先で粘土をこねて作ること。また、そのもの
(日本地名大辞典)
六連式土器
もっとも古い塩作りの方法として、藻塩焼製塩法あるいは土器製塩法と呼ばれる技術が知られている。前者は海藻を使用する採鹹行程から名付けられた名称であり、後者は煮沸容器として土器を使用する煎熬行程から名付けられた名称である。
煎熬=せんごう:塩田で得た濃厚塩水(=鹹水:かんすい)を煮つめて食塩を析出すること
海藻を用いるなどして得られた鹹水を煮沸し、塩の結晶を得るのに使用された土器を製塩土器と呼ぶ。この土器は内側が平滑な粗製土器であり、北は青森から南は九州までの縄文時代後期から平安時代にかけての海岸線の遺跡で多く発見されている。
昭和54年から56年(1979-1981)に実施された福岡県海の中道遺跡の調査では、8〜9世紀に使用された甕形(かめがた)煎熬土器と焼塩壺と考えられる土器の存在が明らかになっている。
後者については昭和33年(1958)六連島ですでに発見されており、これは、型作りのため内面に布目の残った丸底円筒形の土器で、「六連式土器」と命名されている。この土器の器形の特徴及び二次的加熱痕や器壁の剥離が見られることから固形塩を作るための焼塩壺であり、また、内陸部の寺院や官衛などの公的機関の性格が強い遺跡からも出土することから、塩の献納と関係した運搬用器であると考えられている。
土器の大きさは、口径11センチ、高さ29.3センチ、器壁の厚さ約1センチの円筒形である。
六連式土器の発見される遺跡は山口県内では生産遺跡である六連島遺跡、筏石遺跡、吉母浜遺跡安岡駅構内遺跡ばどのほか、消費遺跡と考えられる周防国府跡、長登銅山跡など15箇所が知られているが、遠く平城京跡や布留遺跡など畿内各地の遺跡でも発見されている。
筏石遺跡は、響灘に浮かぶ蓋井島にある古代の集落跡で、昭和42年(1985)の小野忠熈氏らによる調査で六連式土器が発見されており、土器の大きさは口径11センチ、高さ29.3センチ、器壁の厚さ約1センチの丸底円筒形で黄橙色をしている。
(下関市史民続編)
製塩土器
海水または鹹水を煮沸して塩の結晶を取るための土器。縄文後期後葉から弥生、古墳時代を経て一部では奈良、平安時代まで使用された。形状は多様で、多くは深い鉢形、鉢形、桶形に分かれる。底部は尖底、丸底、平底などがあり、多様な足の付く物もある。一般的に粗雑な作りで無文である。師楽式土器は瀬戸内地方のもっとも知られた製塩土器のひとつである。
(日本史広辞典)