西教寺
浄土真宗本願寺派の西教寺は、天正年間(一五七三〜一五九二)に織田氏の石山本願寺攻略の際に本願寺身分として従軍し、顕如上人に帰依した麻生与左衛門高房が、下賜した阿弥陀如来像を、天正九年(一五八一)八月、草堂に祀ったのが基とされる。
この当時、島の対岸の武久、幡生から三軒ずつ入殖し、この家々が六軒株とされる。その内の一軒が高房入寂後、西教寺を継いだ。しかし、具外的に六軒株が、どの家であるかは話者によりまちまちである。西教寺の過去帳には、大司家・林幸一家・城戸進家・目黒武治家・西村真詮家(西教寺)が古くから見られる。
仮に森神の祭祀が入植当時から始められていたとするならぱ、大司家の祭祀する南の台地上森神を除いて、北の台地上森神にも西の台地上神森にも見られるように、祭場土地所有権の移動に伴う変動があったのではないかと推定される。あるいは「七軒株」と称して、島で小祠を祀る七軒の家々をその旧家と見なす話者もいる。
(「下関市史』民族編)
其後、伽藍類敗して、宝暦十一年(一七六一)十一月大に係膳を加へたるも、数十年を経て、又及壊破したるを以て、安政六年(一八五九)十二月再建せり。次て明治十六年(一八八三)十二月七日の類焼に遇ひ、翌十七年六月三十日、更に再建せり。当代は岡本院主。境内に真宗の妙好人として名高いお軽同行の碑がある。
(『硯海の楽土』)
西教寺釣鐘の因縁
旧藩時代に於ては釣鐘の鋳造は中々容易に許可がなかったが、釣鐘を鋳造するということは頗る大儀なことで余程の有力な理由がなければ出来なかったのだ。所が此の島の釣鐘位奇妙奇天烈な理由を以て生まれ又死んだものはあるまい、昔では鐘を撞いて時を知らせて居ったと云ばかりではない、特に島の鐘はそれ位な単純な役目ではきかぬ、羅針盤の役目をつとめていたのだ。
響灘は由来霧の名所だ。舟にのつて霧に閉じ込められて方角の分らぬ位辛いものはない。それに風や潮でも不好らうものならなほ更だが、また島には肥料として古来藻の打ち寄せられたのを拾って、これを分配して各自肥料として施ひているので、大暴風雨だとも、夜中だとも、藻のより相に時には何時でも飛び出して行く習慣があった、七不思議でウグメから子を抱かされたというようなことも往々あるがそんなことにかかわっていては、作物に大関係を及ぼすから、この藻寄せは島の大事の一である。
また春になると藻取りと云って小さな船を漕ぎ出して藻の多い所に行って二本の竹で藻に巻き付けてうまい具合に巻き切って採収する。この場合などに若しか霧にでも閉じ込められては大変である。時をとるためよりは寧ろ方角を知るために鐘の必要がある。霧が深いと鐘を時々聞いて方角を知らせてやる。他村の鐘で不自由ながらも方角を知るよすがとしていたけれどそんなことではとても物にならん。是非鋳造の必要があるというので、同島には特別に釣鐘鋳造の許可があったのである。これは表面西教寺の鐘として同寺で浄財を募化せしものであって、汝のような銘があり、
蒲牢脱模 華鯨新成 暁吼残月
心水澄清 夕破瞑煙 耳根朗明
近振林岳 樵夫開情 遠徹海上
漁叟称名 豊冷霜冷 忘想眼驚
到龍華会 厳護法城
その大きさは次のようであった。
高 二尺七寸 約八十糎
径 一尺七寸 約五十糎
縁厚 一寸五分 約四・五糎
重 三十二貫 約百二十瓩
霊音静鏘として水を渡り、旦暮慰籍を島人に与えていた。如蜥くして善男善女の伴となって法の道に清音を辿らして居ったこの釣鐘も、時世の変化には抗敵することが出来なかった。尊王攘夷の説が盛んに起って、黒船の海峡通過を砲撃すると云う危ない時となって来た、所が長藩には大砲の数が極めて少ないので、佛寺の釣鐘は悉く没収されて下った。時は前田の役で黒船に対抗するために築き上げられた我が砲台の上には所々に釣鐘を交へ列べて置と云ことになって、同島の釣枇もその仲間入りをすることになったのであるが、その後の消息に関しては更に知るものがないと云う。
(硯海の楽土)