市営渡船・六連島線

六連丸 六連島には昔から「村舟」と呼ばれる「役舟」が二隻あった。藩制時代は藩の役人の送迎に使われ、明治に入って学校の先生・区長等官吏の往来に使われ、島民はこれを「役目」と云って交代で運搬にあたっていた。また、急病人の場合、医師の送迎にも使われ、時には、芋・大根等の出荷や「うに採り」などに五島・壱岐・姫島まで人を運んだ。

 一般島民も、この「村舟」に便乗し下関へ往来していた。又、六連島は税関・検疫・パイロットの乗船泊地として門司からは毎日定期便が運航していた。税関史・検疫官・パイロットも交代で駐留しており、島民との交わりも深く殆どの島民が官船に便乗していたのである。

 昭和四年(一九二九)十二月、六連島から彦島町立木村尋常小学校へ通学する学童を運ぶことを日的に彦島町が、六連島−伊崎間に町営渡船の運航を始めた。之には発動機船第五彦島丸を建造して、六連島委託経営としたが、経営困難により昭和六年、彦島町営とした。しかし同年再び島へ移管し、農産物を唐戸市場へ出荷するため、航路を麿戸まで延長した。

 昭和八年三月、「関彦合併」により下関市営渡船六連線となった。六連−唐戸線は、昭和十七年五月に大和町埋め立てによる迂回と重油不足により廃止され、六連−竹崎間の運航になった。

 昭和二十四年十月、竹の子島への寄港を開始(昭和二十九年七月中止)、二十八年七月から毎年夏期に竹崎−六連島−馬島に海水浴客の臨時運航を開始した。

 渡船料は、大正十年二十銭、昭和三十二年四十円、昭和六十一年二百円へと推移している。
(下関市史)

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