水先案内人

 大瀬戸、小瀬戸を控え、急潮ともあいまって、関門海峡は古来から通航船舶にとってなかなかの難所であった。

 明治二十三年(一八九〇)に船舶の航行安全を確保するため「水先法」が誕生し、更に、明治三十二年(一九〇〇)八月、下関が一般開港に指定されてからは外国船の出入港も増加し、水先案内の需要は飛躍的に増加した。

 それより先の明治初年には、六連島に英・伊・露各国の水先案内人が住んでいた。
 水先案内人・パイロットは、古くは「付船」また「伊崎」「関落ち」あるいは「チョロ」とも呼ばれた。

 「伊崎」と云うのは、伊崎に水先案内人が多く住んでいたからで「関落ち」とは周防灘の方へ船舶を誘導することを「上へ落とす」、その反対を「下へ落とす」と云ったことに由来し、「チョロ」とは二丁櫓から転じたものと云われる。「付船」とは水先船を本船に付けて航路の案内をしたのはもちろんのこと、船内のもめ事の決着もつけてやったからだと云う。

(『下関市史』民俗編)

 文禄年間(一五九二〜)秀吉の朝鮮征伐の兵船が海峡通行に際して門司より水先案内人が誘導したと伝えられているが、その後、江戸時代に入って北前航路が拓かれてより、寄港地下関が水先案内の本拠地であった。

 古くより知られているものに、関屋・板屋・因幡屋・越後屋・青野屋・小串屋・網干屋・豊後屋・肥中屋などがあり、何れも伊崎を根拠地としていた。又、水先船は附船と呼ばれていた。これら水先屋は船具商・船宿を兼ねたものが多く、関屋は吉田松陰の『廻浦紀略』にも見られるように関に滞在中の宿であった。

 水先屋はそれぞれ国別によって担当が定められており、例へば関展は加賀船、越後屋は越後船というように・・・。水先水域も西口は南風泊から錨地まで、東口は金伏瀬をその境としていた。

 これら水先が伊崎に集中していたのは地理的に、西へも東にも近く、特に筋ガ浜の遠見より大帆の印が望見出来、船主、国名が読め確認できるため入港船よりの連続を待つことなく担当者が漕ぎ付ける位置にあり、北前船の船頭たちにも喜ばれたのであった。この水先船は「ちょろ」と呼ばれ、本船に綱をつないでその先方を二挺櫓、三拠櫓で曳船先導するのである。

 明治時代に入ってから、これまでの北前船(樽廻船)は西洋型帆船化・汽船化されてきたが水先人はこれまでの業者がそのまま引き継いでいたようで、門司の関忠(関谷忠一郎)六連島の田中某、坂井某氏など有名であった。明治初期に於いては水先人に関する規制もなく内海通行にも従来の和船乗りがこれに当っていた。

 明治九年十二月制定、十年十月一日施行された「西洋型船水先免状規則」により神戸港初代港長のジョン・マーシャル(英人・一八三三〜一八八七)船長が水先試験を実施し、その結果僅かに三名が合格、免許状が交付された。免状第一号が当時三菱会社船長ジョン・ジェームス・マルマン(ドイツ系英国人・一八三八〜一九三〇)、第二号が北野由兵術、第三号、富田市兵衛であった。

(日本パイロット協会史)

 西洋型水先免状規則第六条には、次の規定がみられる。「水先人タルモノハ年齢二十二歳二満チ少クモ一年間八百トン以上ノ西洋型船二於テ船長若クハ一等運転手ノ職ヲ執リタル者ニシテ自今免許ヲ得テ水先ヲ営業セントスル水先区内二於テハ既ニ六ケ月問水路教導ノ事務二従事セシ者又ハ自今営業免許ヲ受ケントスル水先区内ニ於テ明治十年一月一日以前ニ二ケ年問水先人トナリ西洋型船ヲ嚮導セルモノ著クハ六ケ年間航海二従事シ其中一カ年間ハ自今営業免許ヲ受ケントスル水先区二於イテ既二水先見習人トナリ航海二従事セルモノニ限ル。」とあり、これまで和船乗りを主としてきた日本人には厳しい規則であり外国人に有利な厚外薄内的とも思える狭き門であった。
 明治三十二年水先法の制定により、「向こう五年以後、外国人の受験資格は認めず、満六十歳以上の者の水先人の業務に従事することを得ず…」と外国人駆逐政策をとった為次第に外国人は姿を消し、大正十四年、英人スシーブンを最後に水先行は日本人の手に戻った。

 「文字郷土叢書」によれば、明治時代に入ってからは、千石船がぽつぽつ洋型帆船と変わり、汽船も追い々と入港する様になったが、関門付近の水先人は依然として在来の当業者が勢力を占めて居て、門司の関忠、六連島の田中・酒井の諸氏が有名であった。

 一方、内海を通行する汽船の水先人も、未だ其資格に何等の例限がなかったので、在来の和船乗りが実地の経験を利用して、之に従事して居た様な有様であった。

 其後規則を制定して、水先人たらんとする者の受験資格を一等運転士以上の免状を有し、一ヶ年以上現職に従事したる者に限り、尚在来の当業者も受験し得る事となった。

 第一回の試験に合格した人々は、邦人では北野由兵衛氏のみで、他の十数名の人々は全部外人であった。以て明治二十年頃、三菱会社の船長英人「マルマン」氏が神戸港長兼船舶検査官になってから、大いに邦人の受験を奨励した結果、明治二十二年頃、加屋洋助氏を初めとして勝沼五郎・宮岡百造・吉原辰蔵・益田某・西井某等の諸氏が瀬戸内海の水先人免許を得た。しかし、外国人当事者に圧迫せられて勢力微々として振はなかった。其後明治三十二年水先人法の制定により向う五年以後外国人の受験資格を認めぬこととなり、尚、満六十歳以上の者は水先人の業務に従事することを得ざる事として、外国人駆逐政策を執り、大いに邦人を採用した。その結果、外国人当業者は次第に法定年齢に達し、大正十四年「スチーブン」氏を最後として、全く其影を没するに至った。

 一方在来の帆船の水先人は千石船が洋型帆船となり、操縦が容易になったこと、大型船は汽船に変わったこと、海峡の整理が進捗して航路が著しく安全になった等の理由で、次第に必要がなくなり、殆んど他に転業してしまった。猶残って居る人たちも之を専業として居る者は少い模様である。

 この記述の中に、益田某とあり、益田音造、即ち舛田音松氏であることは確かである。後に音吉氏の事は日本水先人の歴史を書換えることとなり、平成元年に至って改訂版が出版されたのであった。
(彦島風土記)

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