中島名左衛門と守永弥右門

 「彦島に行って島廻りをやって見ると、沿岸の砲台の厳然として構えられているのに仰観せずにいられないが、それを見るにつけて、更に思い起こさずにはいられないのは、この砲台の経営の最初の任に当たった我国砲台建築の開祖とも云ふべき長崎の人贈正五位中島名左衛門翁その人である」(明治四十年刊『島廻り』)

 文久三年(一八六三)、中島名左衛門は、長府藩主毛利大膳大夫に招聘された。文久初年に次いで二度目である。砲台経営の重任を下された彼は、防戦会議の席に列し、盛んに持論を主張した。しかし、志なかばにして、浪士に踏み込まれ殺害された。

 中島は文化十四年(一八一七)肥前国島原領守山村に生まれ、長崎にて高島流砲術の祖・高島四郎太夫の家に住み込み、砲術及び練兵の教授を受け、蘭外人にも西洋式砲術・練兵の道を授かり、その技量は広く世に認められた。

 折からの攘夷戦に備えて、各藩より盛んに招聘されるようになった。大村・唐津・熊本・佐賀・福岡・岡山などの各藩とともに長州藩にも招聘された。

 中島は招聘先の赤問関新地の宿舎藤屋旅館で殺害されたのである。文久三年(一八六三)五月二十九日夜半のこと、彼に反対する浪士に踏み込まれたものと云われている。

 下関市新地町、妙蓮寺境内楼門の時に、注意しないと見過ごしてしまいそうな小さい墓がぽつんと立っている。中島名左衛門の墓である。この近くには、萩藩の新地会所跡や高杉晋作終焉の地がある。

 弟子待の台場には、天保砲七門が設置された。萩藩は荻野隊の守永弥右門を指揮者として派遣、駐在させた。長府藩は一番手大将毛利刑馬(八百五十石)・二番手大将桂縫殿(千石)を筆頭に、立野槍奉行・江良旗奉行・吉岡大胞頭ら六百五十余の将兵を派遣、異国船撃破に備えた。

 天保砲は性能が劣り、射程距離は短かく実戦には適さなかった。一発の弾も応射することなく元治元年(一八六四)八月、英米佛繭四国連合艦隊により破壊され、戦利品として持ち去られた。

 昭和六十年(一九八五)、パリのアンバァノット軍事博物館より下関へ里帰りした天保砲は、おそらくこの弟子待に置かれていた砲の一つであろうと言われる。

 この大砲の砲身には次の銘が刻まれている。
  子九番  試薬五百目  天保十五年甲辰
  壱貫目玉 地矢倉七分  郡司喜平治信安作

 天保十五年(一八四四)、長州藩新城下で鋳造されたもので、青銅製。砲身に装飾を彫り込んであり「獅子唐砲」と呼ばれる。

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