身投げ岩

身投げ岩


 写真右側の草が茂ったあたりの約20メートル下に小瀬戸(関門海峡の大瀬戸に対して彦島と旧市内の間の海峡をかつては小瀬戸と呼んだ)があります。中央右の木の茂った奥が身投げ岩で、下の写真のように海面までほぼ垂直に巨大な岩が立っています。

海上から見た身投げ岩

 かつてこのあたりは小瀬戸の風景の中でも最も美しい場所と言われており、対岸には高級料亭が軒を並べ、漁船に篝火をともし、捕れたての魚を客に振る舞う船遊び(小門の夜焚)も盛んでしたが、大正から昭和にかけて現在の大和町付近の大規模な埋め立てが行われ、潮の流れが変わってしまい、今はもうその面影もありません。その一角にあるこの身投げ岩は緑の木立を背景にいくつもの巨岩が屹立している場所で、地形的には老の山の山かげにあり、入り組んだ細い路地の奥なので通行人もほとんどなく、身投げ岩の存在は一般にはあまり知られていません。

 12世紀後半の源平の時代、ここ彦島は平清盛の息子、平知盛の所領地でした。当時平家は木曽義仲によって京都を追われ、瀬戸内や九州各地を流浪する身となっていました。寿永4年(1185)2月、屋島の合戦で敗れた平宗盛を総大将とする平家一門は、平知盛が平定した瀬戸内や、九州の平家方を頼りにして体制の立て直しを計ろうとして、瀬戸内の西側の守りの要衝である彦島にやってきました。

 彦島は平知盛の築いた彦島城を中心とした平家の要塞となっており、一門を追って西下してくる源義経を迎え撃つ準備が着々と進められました。そして、寿永4年3月、源平最後の決戦である壇ノ浦の戦いが起きるわけですが、この戦いに平家方はここ彦島の福良(現在の福浦港)を最期の出船の港とし、海峡の潮の流れを知り尽くした猛将平知盛の指揮のもと天皇の御座所を持つ巨大な唐船をはじめとした多くの船で次々に海峡に出ていきました。安徳天皇に付き添った祖母二位の尼(時子)や母建札門院(徳子)をはじめとする女性達も多くが一門と共に船出しましたが、平宗盛は女性には自分たちと共に戦に出ることを強制せず、希望する者は一門から離れて島に残ることを許しましたので多くの女性が島に残って戦いの行方を島影で息を殺して見守っていました。

 壇ノ浦の合戦は、当初は潮の流れを借りた平家方が優勢でしたが、四国や九州から参戦していた郎党の相次ぐ離反や、当時の舟戦のルールを破って、平家方の船の船頭を次々に射殺して船の自由を奪う作戦に出た源義経の奇策によって、朝から始まった戦は夕刻には平家の敗色が濃くなっていました。

 運命を悟った平家一門が男と言わず女と言わず次々に壇ノ浦に入水して源平の最期の合戦は源氏方の勝利で終わりました。このとき、安徳天皇は祖母二位の尼に抱かれて入水し、天皇の象徴である三種の神器のうちのひとつである宝剣も失われました。

 戦が終わり、源義経を総大将とする源氏軍は串崎(現在の長府外浦)、赤間関(現在の唐戸付近)、彦島に次々に上陸しました。「新平家物語」によると義経は彦島に、梶原景時は串崎に上陸して仮の住まいをしつらえたとされています。源氏軍は京都を出て以来の、瀬戸内の凶作による食糧難や、義経得意の不眠不休の強行軍のために、軍のモラルは非常に低下しており、上陸した兵士の多くは半ば暴徒と化して、民家の倉や田畑を荒らし回りました。

 平宗盛に暇乞いをした京都の女官や雑仕女(ぞうしめ)たちは、島内の平家一門の住居跡や漁師の家にかくまわれるなどして潜んでいましたが、彼女たちは、ここまで日夜、戦に明け暮れてきた暴徒達の格好の標的となり、源氏の兵士達は許されざる陵辱の限りを尽くしました。多くの女性は乱暴を受けた後に殺され、また、誇り高き平家の女性達は命だけは助けられてもその多くは自ら命を絶ちました。

桃崎稲荷大明神 (1999.4.4)
身投げ岩の上にたつ桃崎稲荷大明神

 ここ身投げ岩近辺は彦島の中では壇ノ浦からはもっとも遠く離れた地であり、義経が占領した御座所(彦島城)からも遠く離れた寂しい漁村でしたので、特に多くの女性達が隠れていました。したがって、被害にあった女性ももっとも多く、彼女たちはある者は源氏の兵の手から逃れるため、ある者は受けた辱めに耐え切れず、次々にこの身投げ岩の断崖から当時日本でもっとも流れの速い海峡だったこの小瀬戸に身を躍らせたのでした。

 彦島で細々と漁師を営んでいた男達は、島の人々を非常に大切に扱った知盛のお役に立てるなら・・・と、平家の軍船の舵取りや水先案内人として一門に同行しました。それまでの水上戦の常識であれば、彼らのような現地で雇われた水夫達は、たとえ平家が滅ぶとも、命だけは助けられるのが当然でしたが、義経の奇策によって、源平の争いにはなんら関係のない彼らまでもが皆殺しにされ、また、島に残った女性達もその源氏の兵士達の傍若無人な振る舞いによって多くが命を落としました。現在の島には源氏にまつわる史蹟は何一つ語り継がれておらず、源平の合戦から800年がたった今でも、この地は強烈な「平家贔屓(びいき)」の地として、平家の哀話が大切に語り継がれています。平宗盛が早々に放棄して逃げたため、源氏軍の滞留がなく、彦島ほどの被害を受けなかった屋島(香川県)には源氏に関する史蹟が数多く残されて、今では観光資源として扱われているのとは非常に対照的です。

アクセス:東大和町経由海士郷行き・海士郷下車・徒歩約1km・付近には自販機、商店などありませんので猛暑、厳冬の際のご訪問にはご注意ください。

 彦島の住民達の巻き込まれた事情も書き込まれていることから何故彦島には勝った方の源氏の遺跡が一切存在しないのか、(源平双方の史跡をノーテンキに残すことの出来る幸運な島屋島と平家方の悲惨な滅亡を今に留める嘆きの島彦島の鮮やかな対比によって)、彦島では源氏方の痕跡を拒絶し破壊し尽くすことによって平家の男達の怨念・女達の悲哀を慰めるだけでなく、島民達自身が義経の戦争犯罪行為の直接の犠牲者であった歴史的事実を現代まで語り継ぎ糾弾し続ける姿勢を選択したと中西氏は日本の他の地域の人々の安易な判官贔屓にささやかな疑問を投げかけ、義経の人格に対して再評価を要請するのに成功している。
(服部 明子)
  平家臨終の地が壇の浦(彦島という名前はまったく知りませんでした)というこ とはみんなが知っていることですが、やはり戦に勝つと負けるとでは雲泥の差があり ますね。  負けた方は悲惨であるということは、今も昔も変わりない様です。しかし義経は 「そのような武士ではあるまい」と思っていましたが、やはり「おまえもか」という 感がいたします。
 今日、殺伐として風紀の乱れた状況を考えるとなにか「義経だけは」と清廉であっ てほしかった気がいたします。
 義経が余りにも高く評価されだけに、義経観が大きく変わりました。
 この史実を読んでみるまで全く知りませんでした。厳粛な気持ちになって人間の性 というものをむなしく思います。
(藤井 義胤)