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■■■■角倉県営住宅付近■■■■ 撮影地:田の首経由彦島営業所「青葉台入り口」下車 徒歩4分 角倉町と山中町の境の山を切り開いて造成された団地に立つ県営住宅 。ここは元々地元でヒノキ山と呼ばれた小高い山と現在の芳無田(よしむた)公園の裏手の山のあたりにあった谷間を埋めて造成されました。この谷は角倉の段地堤と山中を結ぶ経路として細い道が続いていました。この道は確か私が小学生の頃は確かに存在して道ばたにツクシなどがよく生えていたのを取ったことを覚えています。 「彦島あれこれ」(富田義弘著)によると、そのころここにあった谷はビクの谷とよばれ由来のよくわかっていない「山の谷」と字が刻まれた石塔が建っていたそうです。私も小さい頃なにかそれらしいものを見たような気がするのですが、私の記憶に残っているのは何か石の台座の上に石の棒のような物語っていたように記憶に残っており、今思い出して想像すると、比較的最近立てられた物のようでしたしが、今となっては定かではありませんし、すでに谷は埋められているので確かめるすべもありません。この「山の神」なる石塔はかつては彦島のあちこちに数個存在してようです。 ここで広辞苑(岩波書店第4版CD-ROM)で「ビク」という呼び名についての情報を求めてみると、地名として成り立ちそうな意味としては、まず一つには「「魚籠」と書いて、 とった魚を入れる器のことを差す言葉があります。彦島は福良や海士郷に代表されるような漁師の島でもありましたから、これが由来であることはありそうです。しかし、この「ビクの谷」はまったくの山の中にあり、かつて福良湾が現在の江ノ浦まで入りこんでいた時代には現在よりは海が近かったとはいえ、漁師が住んでいたとはとても考えられません。そこで、この案は保留にしておきます。 別の意味として、ビクは「比丘」と表記し、「梵語で食を乞う者の意、仏門に帰依して具足戒(比丘の守るべき戒)を受けた男子。修行僧。乞士(コツシ)。」とあります。源平の合戦で戦から逃れ出た平家の武者がここに隠れ住み仏門に帰依した。源平の合戦のあと、源氏方による平家狩りがあったが、彼のことを哀れに思った村人(彦島の人間は平家や佐々木小次郎など敗れたものに情けが厚い)は彼のことを源氏に突き出さずにそっとしておき、農作物などを時には届けたりもしていた。彼は平家最高を願って仏門の修行を続けていたがやがて志しもむなしくこの世を去り、それを哀れに思った村人がここに慰霊塔(平家塚)を立てた。それが「山の神」の石塔だった。というストーリーを考えるとつじつまも合うような気がしますし、その方が想像の羽を広げる余地があって楽しいのではないでしょうか。 ■■■ 比丘の谷の写真を彦島在住の「あんぱんまん」さんから提供していただきました。 これは姫の水から現在の角倉3丁目県営住宅方向を1971年頃(あるいはそれよりも前)撮影したものです。近景の屋根は弟子待保育園です。画面の右端にわずかに見えるベージュの壁で四角い大きな窓が開いている建物は角倉小学校です。画面左側から中央付近までに横たわっている山の中央付近がV字型に切れ込んでいるのが樹木の様子から観察できると思いますが、これが比丘の谷で、ここから段地堤を通って塩浜・山中方面へ道が続いていました。 上述の県営住宅はちょうどのこの山の平らになった稜線付近に建っています。
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