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小門の夜焚

 上の写真は、大正元年頃の小門の夜焚風景です。
 明治31年に生まれた、福島忠兵衛さんが語った、明治・大正時代の伊崎、なかでも漁業を中心に紹介しましょう。


 今は海岸道路ができてりっぱになっているが、埋め立てをするまでは、浜側にある家の裏はみな海で、海水をじかにくむことができるし、家の縁側から、魚を釣ることもできた。小瀬戸は干満の差が大きく、干潮時にはがけ下から10〜20メートル先までも干上がっていた。
 アサリ、ニイナ、青ノリ、ワカメなど具類や海草を、自由に採ることができた。干潮の時の流れは速く、渦巻きがすごかった。6、7ノットくらいの流れで、帆船時代、伊崎に人港する船が渦巻きで、カジが効かなくなり、そのため難破し、死者を出したことも何回もあった。
 明治時代、小戸(小門)の夜焚きが有名だった。夜焚き漁はこの渦潮を利用するもので、カガリという金綱にたいまつを焚き、渦潮で吹きあげられた魚がかがり火に寄ってくるところを、長い柄のついたスクイタマ(網)で捕り、すぐに料埋をして食べた。
 伊藤博文をはじめ多くの有名人が、楽しみに来られ、梅園とか長保楼という、りっぱな料埋屋があり、ここを利用していた。
 やがてアセチレンガスができて、たいまつの代わりをするようになり、ちょっと風楕が無くなったが漁民は幸せだった。私も小学枝を出ると、すぐおじさんの船に乗って、夜焚きに行った。
 今の大和町の埋め立てができてまったく潮の流れがなくなり、伊崎の海岸も埋め立てられて、りっばな漁港になったわけだが、漁師としては、いちばん役に立っていたガタ(潟)が、全部なくなった。このガタを多くの漁民が、生活の糧にしていた。私たちは、ここでタイのえさを掘ったりした。えさとしては、イイ虫、オーコー虫、シャコなどがすんでいた。
 小瀬戸の魚は、春になると、エソ、甲イカ、フク、車エビがやってくる。夏の初めは、サヨリやアゴ。夏になるとスズキが釣れるようになる。4、5キロのものが一本釣れれば、それでめしが食えた。

彦島上水道の給水開始と小門海峡

 彦島町が昭和8年に下関市と合併したことから、彦島配水池の新設と配水管を敷設する第4期拡張事業が行われ、昭和9年12月から彦島上水道の供給が始まりました。彦島に上水道を通す工事でもっとも困難だったのはこの小門海峡の海底に配水管を敷設することで、海峡が急流で船の往来が激しいことなどから、着工以来30日間を費やしました。

 左側の小高い山の中腹に、大正15年頃別荘が建ちました。当時、化粧品問屋を経営していた藤津良蔵という人が、保養地として造ったもので、庭園を「報済園」と名付け、一般市民に開放しました。その時自費で絵はがきを作り、来園者に配ったということです。報済園は昔日の面影を漂わせ、今も残されています。

「潮風」94年8月1日・93年9月1日号より許可を得て転載


 上の写真は2002年5月に海士郷から撮影した小門海峡です。大正から昭和にかけて埋め立てられた大和町が完全に海峡をふさいでいるように見えます。画面中央に横たわる陸地がほとんど埋立地です。左側に見えるタワーが「海峡ゆめタワー」。中央から右側にかけての遠方の山は九州です。