大原御幸の舞台寂光院 1
平清盛の娘として生まれ、16歳の時に11歳の高倉天皇の中宮となった建礼門院こそ、平家一門にあって最大の悲劇の女性の一人であることは疑念の余地がないと思われます。
「波の下にも都のさぶらふぞ」と諭されながら、祖母に抱かれて壇ノ浦の急流に沈んでいった我が子安徳天皇に従い、御座船から身をおどらせたものの、我が子のあとを追うことも出来ず、憎敵源氏の兵に黒髪をつかんで引き上げられた徳子(建礼門院)は、京都へ護送された後、円山長楽寺の阿証房の上人印誓を御戒の師として、29歳の若さで髪を下ろしました。
もともと隠棲した吉田の地も人が行き来し、人の噂もあるので、やがて建礼門院は阿波の内侍(藤原信西の娘)の「これより北、大原山奥寂光院と申す所こそ静かに候へ」とのススメを受け入れ、都を出て大原の麓に庵を結び、阿波の内侍、大納言典侍(平重衡の妻)、右京大夫(平資盛の愛人)と共に隠棲することになりました。文治元年9月末のことでした。
大原の里は現在の京都市左京区,北郊外の高野川に沿う若狭街道上の集落です。本来は「おはら」といい小原とも書きます。この地に静かにたたずむ、三千院、寂光院は、大原女(おはらめ)の風俗や紅葉の美とともに全国に知られる、どちらを向いても山ばかりという淋しい里です(1985年には右の写真のような感じでしたが、最近はかなり大衆観光地化されたと聞いています)。
寂光院(じゃっこういん)は、この大原に現在もある天台宗の尼寺です。聖徳太子、あるいは良忍(りょうにん)の開基と伝えられていますが確証はありません。現在の建物は慶長年間(1596-1615)に豊臣秀頼の母淀君の願いによって片桐且元が再興したもので、本尊は六万体腹籠(ふくろう)の地蔵尊です。
注釈
建礼門院の号は夫高倉天皇の死去した年に得ていますので、出家と号は関係ありません。
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