大原御幸の舞台寂光院 2

大原御幸「道すがらも四方の梢の色々なるを、ご覧じ過ぎさせ給うほどに、山陰なればにや、日もやうやく暮れかかりぬ。野寺の鐘の入相の声すごく、わくる草葉の露しげみ、いとど御袖ぬれまさり、嵐はげしく、木の葉みだりがはし。空かきくもり、いつしかうちしぐれつつ、鹿の音かすかにおとづれて、虫のうらみもたえだえなり」と「平家物語」は伝えています。

 文治2年4月、そろそろ春も終わろうとしているある日、高倉天皇の父、すなわち建礼門院の義父である後白河法皇がふいに大原の里を訪れました。この年は、平家都落ちから3年、壇ノ浦から1年あまり後でした。

「岩間をつたふ水の音もしづけくして、行き来の人も跡絶え」た寂光院の庵室は「垣には蔦(つた)はひかかり」「板の葺き間もまばら」な、この庵室で建礼門院と対面した法皇は、「人の世の空しさはいまさら驚くにもあたりませんが、それにしても現在のあなたの御有様をみるとこれが仮にも国母とあがめられた方かと胸が痛んでなりませぬ。と言って涙をぬぐったといわれています。建礼門院もまた涙ながらに、かつての栄華のこと、都落ちの悲しさ、海上漂流の苦しみ、平家一門の末路のことなど、長い身上話をされたそうです。

 写真は東京国立博物館に所蔵されている「大原御幸図屏風」の一部分で、桃山時代に長谷川久蔵の筆によるものです。

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