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彦島と平家物語のかかわり

 治承4年(1180)の5月、清盛が安芸の厳島神社に参詣した留守中、源頼政は後白河法皇の第二皇子以仁王(もちひとおう)を奉じて挙兵しました。この挙兵をきっかけとして、諸国に反平氏の挙兵が相次ぐこととなり、東大寺・興福寺などの南都の大衆たちも平氏に激しく抵抗を始めました。そこで同年12月28日、平清盛の子重衡(しげひら)は奈良に侵攻して大衆と戦いましたが、このとき平家軍のはなった火は折からの風に燃え上がり、東大寺・興福寺も焼き尽くし、大仏殿も大仏と、二階に逃げ隠れていた多くの人々もろとも焼け落ちてしまいました。聖武天皇の勅願になる東大寺は国家興隆の象徴でしたので、その焼亡は世間に大きな影響を与えました。さかのぼること8月、伊豆に流されていた源頼朝を始め、9月には信濃国に隠棲していた木曽義仲など信濃国の源氏が蜂起しましたが、このような動きに対して、清盛は平維盛(これもり)、忠度(ただのり)、知度(とものり)に命じて、頼朝追討の軍を派遣したものの、反対に富士川の戦いに大敗を喫することとなりました。かつては「平家にあらざるは人にあらず」と言わしめたほどの平家もこれを境に勢力は下り坂になっていきました。

 勝利を得た頼朝が鎌倉にとどまって関東の地盤を固めることに専念た一方、木曽義仲は既に京都に向かって進撃を開始し、寿永2年(1183)5月、平維盛を総大将とする兵士の大軍を越中国礪波(となみ)山、倶利伽藍(くりから)峠で破り、京都を占領し、平家は西国へと逃れました。養和元年(1181)に清盛が病死した後、平氏の惣領になった宗盛は安徳天皇を奉じて、いったん太宰府(福岡県)へ落ち延びましたが、九州、四国を始め、周防、長門、安芸などの国々の力を借りて勢力を挽回し、この歳の閏10月備中国水島で義仲と戦ってこれを破り、翌3年2月、摂津国福原に帰り、城を一ノ谷に築きました。この時、一ノ谷に参陣した人々の中に周防介高綱、豊東郡司秀平、豊西大夫良近、周防岩国の岩国二郎兼秀、三郎兼末兄弟ら防長両国の武士の名が見られますし、瀬戸内の多くの水軍が当初は平家側に付いていたことなどから、このころ防長両国はまだ平氏の地盤であったと思われます。

 後白河法皇は当初義仲に期待をかけていましたが、やがてその粗暴さに失望し、鎌倉に密使を下して、頼朝に上京を促しました。これに対して頼朝は、範頼・義経を自分の代官として派遣し、寿永4年正月、義仲を討たせました。この後、法皇は改めて平氏追討の院宣を頼朝に下し、いよいよ源氏と平氏の決戦となりました。

 範頼、義経兄弟は一ノ谷に陣を構えた平氏を攻めて、敗走させた後、範頼はいったん鎌倉へ帰りましたが、義経は京都にとどまり、都の警備にあたりました。敗れた平氏一族のうち、宗盛は安徳天皇を奉じて讃岐の屋島に退きました。知盛は西下して安芸・周防二国を回復し、周防大島の島末に築城し、屋島の宗盛を支援するため、伊予国の在庁官人で実力者、河野通信の動きを牽制した。この時大島郡屋代庄の住人屋代源三や下司小田三郎守真らが知盛の配下で活動しました。

 この年の8月、範頼は平家追討使として関東の精鋭を率いて鎌倉を出発し、京都を経て山陽道を下り、安芸国を平定して周防国へ入った。範頼の進出で孤立を恐れた知盛は大島の城を捨てて長門に退き、彦島に要塞を築いてここを本営としました。元暦元年(1184)兄頼朝にあてた範頼の書状に「内藤六が周防の遠石さまたげ候」とあります。内藤六は末武庄(下松市)の住人内藤盛家のことです。盛家は後頼朝のご家人になりました、この時は石清水八幡宮領である遠石庄(徳山市)において範頼に抵抗しました。

 範頼はさきの頼朝宛書状に、兵糧が不足がちで、兵士の気勢が上がらず、故郷を恋しがって逃げ帰ろうとする者が多いと述べ、頼朝の出陣を望みました。これに対して頼朝は翌寿永4年1月6日の書状で、どんなことがあっても幼帝安徳天皇をはじめとし、二位局以下非戦闘員の女房達を安全に迎えるようにと注意すると共に、駐屯地の人々の心を大切にすることが肝要であると指示しました。頼朝のこの返事が届くよりも前、既に範頼は赤間関へ進出していて、彦島を本拠とする知盛の背後を遮断するため、九州渡海を企てましたが、船を得られずいったん周防へ引き上げていました。この時、熊毛郡宇佐木(うさなぎ)の住人上七遠隆が兵糧米を調達し、豊後の住人臼杵二郎惟隆。緒方庄司惟栄兄弟が兵船82隻を提供したので、範頼は三浦義澄を周防に残して豊後に渡り、九州北部の兵士方を攻める一方、彦島にいる平氏の背後に圧力をかけました。

 このころ京都にとどまっていた義経は、四国の監軍として屋島攻撃の命を受け、翌2月17日強風をついて摂津国渡部を出帆し、19日に屋島を急襲し、逃れた宗盛をさらに追って、22日志度の道場を攻めました。2度にわたる戦いに敗れた宗盛は彦島の知盛に合流すべく、海上を西走しました。同日、梶原景時以下の将士が140余隻の兵船に分乗して屋島に着き、伊予国在庁の河野通信も兵船30隻を率いて義経のもとに参加しました。さらに、紀州熊野の別当湛増らを味方に付け、彼らを先鋒として3月、周防国大島津(徳山市)に着きました。21日、赤間関を目指して出発する予定が大雨のためやむを得ず延期した所に、周防国の在庁官人の船奉行船所五郎正利が数十隻の兵船を率いて参加して義経を喜ばせました。続いて関門海峡付近の水路に詳しい長門国串崎(彦島市)の海賊衆も軍船12隻を義経に献上しました。義経は特に正利については鎌倉の御家人にするとの一書を与えました。

 文治元年(1185)3月22日、義経は範頼の代官三浦義澄を先導として、総勢八百数十隻の船に分乗して壇ノ浦奥津に着きました。迎え撃つ平氏の水軍は唐船造りの御座船を含めた五百余隻で、これを三手に分けて、第一陣を九州の山鹿秀遠、第二陣を松浦党、第三陣を平家一門とし、赤間関の対岸にあたる豊前国の田ノ浦沖に集結しました。この時点での戦力は文献によっては別の数字が記録されており、「平家物語」では平氏千艘、源氏三千艘、赤間神宮に保管されている重要文化財「長門本平家物語」では平氏五百艘、源氏三千艘、また「源平盛衰記」では平氏五百艘、源氏七百艘となっています。

  知盛は所領地としたここ彦島を根拠地として、東から下ってくる源氏の軍を待ち受ける作戦を練っていました。知盛は一ノ谷、屋島の戦いで源氏方が強いということ、それも、特に義経が優れた戦略家であることを知っていましたから、まともに源氏の軍を迎えてもだめだということで、今までとは違う戦法を用いて、一度に勝負を決めたいと思っていました。源氏は陸上の戦いでは強いということはよくわかっていましたが、海上の戦いとなると、平家の方が得意としていましたので、陸上での戦いは避けて源氏を海上の戦いに誘い込もうとしました。そのためには彦島が根拠地であることは絶好の条件でした。知盛は平氏の軍をそういうつもりで訓練させ準備を進めていました。

 開戦は午前10時。平氏は東へ向かって流れ始めた潮にのって田浦沖(福岡県北九州市門司区)から、干珠島・満珠島のあたりにいた源氏に攻めていきました。はじめ、義経はじっとこらえさせていました。海峡の潮がすぐ変わることを知っていたのです。やがて潮の流れが止まり、今度は逆向きに西へ向かって流れ始めると、源氏方は攻め始めました。それも、義経は侍大将は狙わないで、まず水夫(かこ)・楫取(かじとり)を狙えと命令しました。水夫・楫取はよろいなども付けておりませんし、彼らが倒されると、船を動かす者がおりません。これが義経の作戦でした。平氏の船はたちまち、西へ流れる激しい潮に引き込まれ、中には自由を失ってひっくり返るものがあり、あとは壇ノ浦の狭いところへ流され集まっていきました。そうなると勝敗はもうはっきりしています。

 源平の天下争いも今日を限りと見て取った知盛は安徳天皇の乗る御座船に乗り移りました。

 安徳天皇のそばに仕えていた二位尼はすでに覚悟を決めており、喪服の鈍色の2つ衣をかずき、練袴の股立を高く取って3種の神器である神じを脇にはさみ、宝剣を腰に差して8歳になられたばかりの安徳天皇を抱いて立ち上がりました。

「山鳩色の御衣にびんづら結はせ給ひて御涙におぼれ、ちいさくうつくしき御手をあはせ、まず東をふしおがみ伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、其後にしにむかはせ給ひて、御念仏ありしかば、二位殿やがていだき奉り、『浪の下にも都のさぶらふぞ』となぐさめ奉って、千尋の底へぞ入り給ふ」

「私は女であるが敵の手にはかかりませぬ。帝のお供をして参ります。志のある人は後に続きなさい」

 帝は途方に暮れた顔で

「私をどこへ連れていくのですか」

 とお尋ねになりました。二位殿は御運尽き果てたことを帝に説明し、東の伊勢大神宮にお別れを、西の西方浄土にお念仏を唱えるよう言いました。

「この国はいやなことばかりあるところでございますから、これから極楽浄土というすばらしいところへお供して参りましょう」

 帝は涙を止めどなくあふれさせ、二位殿に言われたとおり、まず東を拝み、西に向かってお念仏を唱え、二位の尼と共にここ壇ノ浦の波間に消えていったのです・・・。

 この時平家一門や御家人の多くが運命を共にしました。

 さて、海中に没した神じと宝剣探しは、早速翌25日から長門一円の浦々の海女を召集して始められましたが、宝剣だけはついに見つかりませんでした。また、安徳天皇のご遺体に関しても、見つかっていないというのが一般的な説ですが、発見されたという説もあります。すなわち、4日目の28日、安徳天皇のご遺体が瀬戸崎浦の漁民の網にかかったというもので、この説によると、義経から相談を受けた伊勢義盛が4月1日、豊田郡地吉村(豊田町)にある四神相応の地、丸尾山の南端に葬り、陵を築きました。地元ではこれを王居止(おういし)と呼んだそうです。大正15年10月21日、宮内省から安徳天皇陵墓参考地の指定を受けましたが、ついでしょうわ2年11月30日、正式に安徳天皇西市陵墓参考地と命名されました。

 入水後、6年たった建久2年(1191)、後白河法皇は安徳天皇の菩提を弔うため、赤間関(下関市阿弥陀寺町)に阿弥陀寺を建立しました。これが現在の赤間神宮で、この赤間神宮の隣接地に安徳天皇阿弥陀寺陵があります。

 


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