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平家供養の七盛塚

 赤間神宮の明るいきらびやかな拝殿をあとに、左手の宝物館をくぐり抜けるとそこには陽の光も届かぬ黄泉の国を思わせるような、幽すいな世界が静かに息づいており、訪れる人に深い感銘を与える。ここにたたずんでいる墓碑は、七盛塚と呼ばれ次のような伝説が残っている。

 天明年間(1781-1789)のこと、海峡に嵐が続き、九州へ渡る船や漁船の遭難が続出したので、海上交通を断たれた商人や壇ノ浦の漁師たちは、生計がたたず大変困っていた。そんなある夜、漁師たちは荒れ狂う暗い海に、泣き叫ぶ男女の声を聞いたので闇をすかしてみると、そこには成仏できずに海上をさまよっているたくさんの平家武者と官女の亡霊の姿があった。

 漁師たちはこの災難は平家一族の怨念によるたたりであろうと考え、其れまで供養する人もなく荒れるにまかせていた平家の墓を一カ所に集め、京都の方に向けて手厚く供養したところ翌日からは嵐はうそのようにおさまったという。

 この七盛塚は前列右から有盛(ありもり)、清経(きよつね)、資盛(すけもり)、教経(のりつね)、経盛(つねもり)、知盛(とももり)、教盛(のりもり)。後列は徳門、忠光、景継、景俊、盛継、忠房、二位となっており、盛りの付くのは六基しかないが、俗に七盛塚と言われ墓碑ではなく平家一門の供養塔と考えられている。

 また七盛塚の後ろには、たくさんの小さな五輪塔が肩を寄せ合うように埋もれているが、紅石山の土が雨に洗われるたびに、少しずつ姿を現すと言われ、平家痛恨の執念を見るような雰囲気である。

 小泉八雲の「耳無し芳一」が平家武者の怨霊にとりつかれて、真夜中にこの一門の前で琵琶を弾じたことを想像すると、今にもチラチラと鬼火が浮かんでくるような怪しい心地がして、平家滅亡の哀れさがしみじみと胸にせまってくる。

(サンデー下関 1997年11月7日号より引用)

 上記のサンデー下関から引用した資料の中には盛の付く名前の供養塔が6基しかないとか書かれていますが、7基めは平家の時代を築き上げた清盛入道の供養塔で彦島杉田にあり、これを含めて七盛塚と呼ぶのではないかと思われますが、なぜ清盛塚だけが彦島にあるのかは謎です。


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