ふるさと彦島の歴史を学ぶ集い

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紋の歴史的変遷と格式ということをちょっとだけ書いてみようと思いました。

まず 大三島というか越智氏というか三島氏の紋は菱に適当な波を打ってる素朴な紋でした。それが時代が下だるに従って隅切り折敷で縮み三文字に変化してますよね。これが海の民だった河野氏が大三島から四国に上がって北条市河野を本拠として後に湯築城主と変化して行く河野の紋です。

河野氏でも格が上だと隅切り折敷縮み三文字だけど格が下だとまっすぐの三文字になっていますよね。このことは一遍上人のお寺にも言えて、松山道後の宝厳寺のように権威のあるお寺は縮み三文字で、大分の別府近くの鉄輪温泉にある永福寺になるとまっすぐの三文字です。

徳川家でも松平時代は葵の紋が立ち葵という足が長い素朴な紋でアカ抜けないデザイン。ところが時代がトクガワと改名して下がるに従って足が極端に短くなって葵というよりデザインが抽象的に変化して葵の足がお飾りに退化しています。でも、将軍も人によってすこしずつ葵の紋が違うのだそうです。みる人によってはどれがどの将軍の物か分かるようです。私は言われて、比べて、やっと、エッ?!と気づくタイプでした。

河野通次の名前でも昔は適当に漢字を使用していたので 通 は固定してても次 については 継や嗣 を使ったりし、その上、もしかすると 次 じゃなくてこれに似た漢字の続け文字が書かれていたのかも知れないのです。このことは河野氏の人皇7代孝霊天皇に始まり ヒコサシマノミコトに続く家系書でも彦狭シマのしまが嶋になっていたり鳴という字だったり2つあるのです。鳴るという字がどうして島と読めるのか現代に教育を受けた私には分からないのですが。。。

似てるから、それに昔は文部省の検定っていうのがなかったから、どうでもいいんじゃない?と思うことにしています。でも河野通継だったらあったような気がします。もし私の資料にあったらお知らせします。河野氏も平家についていたのを源氏に鞍替えしているのでいつ、どちら側で彦島に移住することになったのか全く見当がつきません。

では

服部 明子 スミス


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