ふるさと彦島の歴史を学ぶ集い

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彦島の各地名について
古代生活痕跡遺跡について
有史・古文書に見られるようになった頃の彦島史
彦島から山陰方面の民族史
質疑応答

有史・古文書に見られるようになった頃の彦島史

 そうしますとこの彦島がいつ頃からいったい見られはじめたのかということで、有史・古文書に見られるようになった頃の彦島史ということなんですが、これがまた大変なことで彦島には何も残っていないんですね。長府藩の記録にもほとんど出ておりません。大内時代の古文書にもほとんど見られません。その中で彦島では必ずこれを話さなければならないんですが、源平合戦の時に平家に付いた落人が住み着いて、12苗祖(びょうそ)とかよく言われますね、そういう方たちが住むようになったと言っておられます。確かに源平の合戦に関わりのあった人がいるのは当然だと思います。その中でよく言う河野水軍、彦島八幡の歴史でよく出てきますけれど、これについて少しふれてみたいと思います。

 これも資料がないので何ともいえないのですが、たとえば彦島八幡宮で今、市の指定文化財になっていますが、お祭りが1つありますね。「さああがらせたまえ」とう「サイ上がり神事」といいますね、このお祭り自体がまたあとからはなしますけれど、このお祭りには極端に言いますと伊予の国から来ました河野通次(こうのみちつぐ)という人が今の彦島八幡宮の地で海中から光るものが見つかり、やりで突き上げたら鏡があがったと言われています。その鏡の後ろに河野八幡と書かれていたからそれを祀ったと言われていますね。その突き上げた歓喜の祭りが今で言うサイ上がり神事だといわれています。

 それを納めたときに踊ったと言うことから舞子島、古い地図で見ると、ちゃんと舞子島というのがあるんですよね。この地図は明治17年に日本政府がはじめて作った日本地図です。時の陸軍省が明治政府の命令で作成した地図です。大変ユニークな地図です。先ほど漢字でもヒアリングで考えますよと言いましたね、ここに竹の子島がありますが、ここに書かれている漢字は食べる筍が書かれていますよね、こういう風にして全部違っているわけなんです。ですから書く方が当時、ヒヤリングで書いた漢字がこういう風になっているんですね。ですから、なかなか難しいですが、この中で先ほど言いました舞子島がちゃんと書いてあります。今は三井東圧の中に完全に埋め立てられてなっています。ここに先ほどの河野通次(こうのみちつぐ)が逃げてきたと言われております。

 ただ、この中で私たちが不思議なのは源平合戦と言うことですけど、河野八幡、彦島八幡の歴史からいくと今度はまた違ってくるわけです。そういう点を突き詰めるのは資料がないの難しいのですが、伝説によって時代判定をするとみんなごっちゃになるんです。たとえば、河野通次、その河野に関する人たちがこちらに逃げてきたのはまだまだ源平合戦以前の話になるわけです。たとえば保元の乱ってあります。1156年にですね、後白河天皇と崇徳上皇讃岐院の2つがけんかするわけですが、この保元の乱には後白河天皇側に付いたのは源義朝ですよね、ですから、源義朝と平清盛が、味方同士で崇徳上皇側にもやはり源氏と平家が付いている。源氏と平家が仲違いして大きな戦争になってしまうんです。

 そのときに平清盛側が勝って負けた側に付いた人たちが大量に西の国に逃げる訳なんです。そのときに逃げてきた中に河野一族もいる訳なんです。ただ、河野通次といいましても、河野家の系図からはどの系図を見ても出てこないんです、。ですから本当にこの男がいたかどうかも疑問になってくると思うんです。ただ、名前が違うかもしれないんです。と言うのはですね、河野家に伝わっている家紋を見ますと、四角菱でなかが「三」がこういう風に波打っています。「四角菱形縮三(しかくひしがたちぢみさん)」という風な言い方をするそうです。この家紋を今の河野家は使っているそうです。しかし享保年間のサイ上がり神事の絵図面を見ますと、やはり河野一族はこれを使っています、。これを使っている河野一族が本家にいるわけです。これは河野水軍の来島(くるしま)、愛媛県に来島がありますが、来島を押さえる河野一族がこれを使うわけです。

 ですから、江戸時代の中頃にもこの家紋を付ける、それ以前にもそういう言い伝えがあるということは、やはり来島の方の一族の流れを汲むのがこちらに来たのではないかと言うことです。俗に言いますと来島の方に住んでいる人はこういう使い方をしますが、来島ではない本島、河野家の方はこういう風に形が違います。これは本家と分家の違いがあると思います。

家紋について、平家物語にお詳しい服部明子スミスさんからコメントをいただきました

 本家と分家といえばここで毛利家の話になりますが、みなさん毛利家の家紋といえばみなさんこういう風に使っていますよね、一文字3つ星でもこういう風に筆頭が付いているはずなんです。打ち込みと止めが付いている訳なんです。ですから、これは両方に筆の勢いと書いて「両筆勢三ツ星(りょうひっせいみつぼし)」といいますが、これが萩本藩の家紋です。彦島方面は萩本藩ですから、この家紋を使ってもいいわけです。お隣に行きますとこれは長府藩ですね。長府藩は一文字三ツ星でも違うわけです。横に1本です。筆頭が付いてないですね、ですからこれを「箱一三ツ星(はこいちみつぼし)」といいます。こういふうにして本家と分家は分かれています。ですから、お寺などを見て、あこれは萩本家だな、分家長府だなということを覚えておいてください。

 そういう風にして河野一族も本家はこれを、来島分家はこれを使っています。この来島一族の家紋を使っている河野の方も彦島にはおられます。ですからこれがいつ頃来たかと言うことは何ともいえません。ある説では源平合戦以前の話ではないか、源平合戦に本当に味方した一族がおられるのではないか、足利尊氏が出てきますね、足利尊氏が出てくる前に北条家がつぶれます。そのときにも大きな戦いがあって、西国方面に逃げてきた一族がいます。そうしますと話が少しずつ話がごっちゃになっていき私たちもどれをとっていいのかわかりません。

 で、これが本当に伊予の国から人たちかな、と思う点を少しはなしたいと思います。先ほど言いましたように民話、伝説を伝える場所を知ると言うことなんです。たとえばこの彦島地区で言葉から聞いてみたいんですが、いろんな言葉の中に伊予の国に伝わる言葉と同じことがああるかと言うことなんですが、伊予、来島海峡の言葉、風俗、習慣、あるいはお祭りと同じことをやっているかと言うことです。伊予の国と同じ習慣があれば大変おもしろいです。私が調べたところ今のところ何もないんです。極端に言えば800年前ですよね800年前以上のことは伝わっているわけです。それからその後の大内時代、毛利時代のことはずっと伝わっているんです。ですから極端に言えばお墓の形態がちょっと違う。あるいは宗教的にたとえば、ずっと彦島に住んでおられる方で遠くの方、来島方面、今治方面にお墓参りにいくことがある、という人がいないんです。

 下関の王司(おうじ)に宇部(うべ)という地区があります。この宇部地区の漁師の方で80くらいの方はこういうことを言います「わたかいにいってくる」。わたかいっってどういう言葉かと言いますと渡る海と書くんです。「渡海に行って来る」といって広島にお墓参りに行かれるんです。ということは今の80の方はちゃんと覚えておらると言うことなんです。

 これはどうい言うことかと言いますと、「渡海」ということばをつかうかたたちは厳島、宮島方面の漁師の方たちが言います。といいますのは宮島にはお墓が1つもないんですよね。神域ですから。作ってはいけないということでお墓は全部対岸の廿日市にあります。ですからお墓参りのことを渡る海、渡海というんですね。それがなぜ王司地区の方々に伝わっているかというと、その方たちは江戸時代に今の宇部地区が干拓されまして、そこに塩田のために向こうから連れてこられた人たちなんです。漁師の方たちは塩の作り方をよく知っていますから、そういう方たちを呼んできて塩田を作り、今度は逆に塩をどういう風に止めたら水田になるか、塩田を止めて少し高くして今度は水田になってしまったわけなんですね。そういう方たちがこのような言葉を使われる。この彦島にもそういう風にして村上水軍とか河野水軍とかいますけれどそういう方の風習が何か絶対残っているはず何ですが今までそういうことを聞いたことがないんです。少しでも残っているものを探したいと思って今歩いてます。

 その後ここは大内時代毛利時代には大変な重要な地区になるわけです。今みなさんが毛利元就というテレビを見られたらその中で大内義隆は特に明との貿易あるいは朝鮮半島との貿易に力を入れるわけですね。そうしますと彦島福浦が最も重要なポイントとなってくるわけです。

 この中で北前船がいかにこの地区を通過するのに危険だったかというのを証明することになる地名が一つあるんです。まず南風泊、なぜ南風泊と付いたかと言うことなんです。当時は帆掛け船ですよね、関門海峡に入ってくるのに問題なのは南風です。南風が吹いたら絶対に入れないんですよね。いくら潮の流れが良くても南風が吹いたら船は入れないんです。ですから南の風が来るときには泊まらないといけないからここが南風泊となったわけです。それから先も簡単にすっと行けると思ったら大間違いです。彦島の南端までは北の風できますよね、ここから今度は南西の風を受けなければならない、そうしないと関門海峡に入れない、そういうことになりますよね。ですからここで一回待たなきゃならないんです。

 一番立派な良港、すっと逃げ込める、いつでも南西の風が吹けばさっと出られるということですね、そのための潮の流れ、風向きを教えるところがこの俯瞰台と言います。この俯瞰台に今はヒヤリング上簡単に「俯瞰」の字を書いていますけど、「風が吹かん」という意味かもしれませんし、それはわからないんです。極端に言えば私はここは日和山とも呼ぶんではないかなと思っています。この辺に漢字で書いて日和山と読める地形があるかということなんです。

 たとえばこちらの金比羅神社がありますね。金比羅という地名が大変おもしろいです。金比羅という地名には必ず灯台があるんです。江戸時代からもちゃんと灯台があります。明治17年の地図にもちゃんと灯台の印が付いてます。明治17年頃にはこの山に灯台があったということです。灯台といっても今で言う電気がきらきら光るのではないんですよ。カンテラです。灯明台ですねそういうものがあったんではないか、と思います。そんな風にして金比羅というものには必ずそういった灯明台があります。(左の写真は当時灯台があった金比羅山)

 もうひとつ、日和山がないかといいましたが、彦島ではまだわかりません。下関の日和山公園は知っていますよね、後二つあるんです。彦島の対岸にも日和山があるんです。小門。この地図では小門観山(おどみやま)とかいてありますが、日和山と清末藩の、ここは清末藩なんですよね、清末藩の地図の中にちゃんと日和山と書いてあります。もう一つ、こういう字で書いてあるところがあります。火の見山と書いてあるところがあります。これも日和山と同じ意味です。というふうに港、古代の港には必ず周辺にこういう地名が必ずあります。金比羅、日和山、潮見山、火の見山。これはなぜかと言いますと、ここですべて潮の流れ風の方向を合図する場所がちゃんとあるんです。でこの日の観山というのはどこかといいますと、綾羅木(あやらぎ)に綾羅木川というのがあります。綾羅木郷台地(あやらぎごうだいち)という遺跡がありますね。この綾羅木川の支流、1本分かれますが、このまま行くと住吉神社があります。昔の国名でここは長門の国と言いますね、海に面した国の古い国名で行きますと、海に面した国で現在これだけ内陸にある一宮はここしかないんです。下関しかないんです。

 博多、福岡の住吉さんみてください。目の前まっすぐに道を付けてですね埋め立ててますけれど、まっすぐに道を付けて海にはいるようになっていますよね。海の神様のお宮がなぜこんな山にはいるかということなんです。これも先ほど言いましたね。この神社ができた頃の伝説、これ古墳時代の頃の後期なんですが、古墳時代の後期はやはり海水が高い頃で住吉神社の近くまで、ここは現在でも標高は9メートルあるんですが、そうしますとこの近くまで海が入っちゃいますよね。そうしますと、ここに、伊倉(いくら)という地名があります。今こういう伊倉を書きますけど、これも古代の地名なんです。大変中央政府が建てた倉があったという証明があります。この伊倉の地と、ここに今は神社があります。豊(ゆたか)神社といいますが、この神社のある山が火の見山というんです。

 で、この山は高さが80メートルくらいしかないんですよ。(なかにし注:上の写真は彦島西山から撮影したものです。背景のごつごつした青く見える山の手前に緑色に見える円錐形の山。左の写真の赤円部分を拡大したのが右の写真)でも、この山は西山からも見えます。竹の子からも当然見えます。北九州からもはっきり見えます。後ろに高い山がたくさんありますがこれだけ単独に見えるんです。ものすごくきれいな円錐形をしています。この山の上からあるものが出てきたんです。方位石と言いまして、その大きな直径50センチくらいの石ですけどその上に立ちますと、真ん中にたちますと、方位が出て来るんです。石に刻んであります。現在これ安岡の方が持っておられますけど。そういう風にしてですね、古代の港の近くには火の見山、その後江戸時代になりますと金比羅という風に変わります。そういうことで、ここの福浦湾がどんどん発展して行くんですけど、北前船が北前船がこの地形が一番きつかった、ですからお願いをするためにですね。付けたような名前が一つあります。

 下関で一番南にある灯台があります何と言いますか??大正9年か7年頃できた灯台がぽつんとあります。なんといいますか?こんな字を書きますよね「金の弦(かねのつる)」(右写真)何でこんな地名が付いたかと言いますと、これは同じような言葉がこういう言葉があります。いい嫁さんを捜すにはなんとかをはいてでも探せと言いますよね、これと同じ意味なんですよ。金の弦をこの端っこに巻いてでもこの端っこ(なかにし注:塩浜4丁目の海岸線)を通って行けと言うんです。でないと、この中にあります、古い地図の中にあります鳴瀬(なるせ)、室町時代に付けられましたよじべえの瀬です。死の瀬といいますが、よじべいが切腹させられてからよじべえの瀬と変わる訳なんです。これも豊臣秀吉の軍船を無理矢理に潮の流れ風の向きを無視して入らされたために少し流されたようで、死の瀬にぶつかり沈没した。そのときの船頭は首をはねられた、その後彦島の方たちが哀れんでよじべえの瀬と名前を付けたと言われています。このようにして大きな岩礁があります。また失敗して今度は門司側に流されますね、そうしますとこの辺は浅瀬になっちゃんです、そうしますと座礁しますね。ですから、彦島側の深いところを素早く通れと言うことなんです。ですから金の弦を引っかけてでもいいからくるっと回れと言う意味でこの地名が付いたようなんです。

 地名というのは何でもなく付いたわけではないんです。そういうわけで私はそういった地名を探しながらこの彦島をもう一度調査すべきではないかな、そう思います。縄文、弥生、古墳時代はどんな地形だったのかな、と思いますし、それから極端に言えばそういう地形をなぜ河野水軍は選んだかと言うことですね、それからこういう地形だからこそ平家が最後の砦としたのかな、ということですね。ですからこの中には空想ですけれど、彦島城があったとか言われています。その彦島城を作るにはどの位置が一番いいか、て言うことなんかも今からの研究テーマだと思います。ですから、そういうものを調査している人たちにここに立ってもらってそういうお話をしてもらえればと思っています。

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