ふるさと彦島の歴史を学ぶ集い

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彦島の各地名について
古代生活痕跡遺跡について
有史・古文書に見られるようになった頃の彦島史
彦島から山陰方面の民族史
質疑応答

古代生活の痕跡、遺跡について

 古代生活の痕跡、遺跡についてですが、これもやはり地名と関連があるんです。私たちはすべて字は、たとえばここは塩浜といいます。簡単にどういうことでこの塩浜という地名が付いたのか、それともこの塩という字が今はなめる、食べる塩になっておりますけれど、元々この塩を使ったのかなという風に考えます。

 もう1つその中で古代の生活遺構、遺跡ですけれど縄文時代、最初に縄文時代といいますけど、実を言いますとその前にですね、この彦島は大変有名なものが一つあります。この彦島ができた頃の地形的な大変な特徴が日本にはひとつしかないものがあるんです。この彦島周辺はですね、大変化石層が多いですよね。日本の中でこれだけ表面に化石層が見られるところはほかにないわけなんです。ということで、ここが、今、西山(にしやま)地区だけです。西山地区の一部ですけれど、西山地区の化石層が指定文化財になっています。これはほとんど極端に言えば西山の関門海峡側から六連(むつれ)側にかけて全部指定してもいいくらいなんですが、そうしますといろいろと差し障りがあるかもしれませんから指定はしないんですけれど、この中で大変おもしろいのがですね、西山でも関門海峡側の化石と六連島側の化石とでは全く違うんです。今は同じ海に面していますから、同じものだと思うでしょうけれど、これが違っているんです。関門海峡側の方はですね門司側の方はすべて海の生物、で、今度は六連島とか安岡(やすおか)側が見える方ですね、全部層によって違うわけです。ところによっては淡水系の植物も出てきます。その上に海洋性のものが出てきます。交互に出てきたり、時には淡水系と海水系のものがごっちゃになったり、ごっちゃになったというのは何かといいますとみなさん食べてますよね、カキです、シジミです、そういうものがたくさん層を成して出てきます。

 ですから関門海峡側は全部海洋性、で、六連島側の方には淡水系のものが出る、その端的な例が、ちょうど対岸になりますけど、吉母(よしも)浜が見えますよね、吉母の海岸の岩石層からですね、ここは恐竜の化石が出て来るんです。恐竜というのはですね、海にはいないです。しかもその恐竜の化石が草食恐竜の跡を今度は肉食性の動物が追いかけています。そういう足跡がちゃんと出てきています。なぜかと言いますと、草食性の足跡の上に肉食性の足跡がちょっと被さって付いているので肉食性の恐竜はあとから来たと言うことがわかりますね。そういう足跡が出てきます。六連側は淡水、大きな日本海が淡水だと考えてください。それがいつの間にか大きな陸地の変動、陸地の変動と言うことは六連島が浮かび上がった頃大きな断層ができて関門海峡ができたと言うことです。で、瀬戸内海側から海水が入ったと言うことが西山、小倉門司側の断層からちゃんと海水が流れた跡が残っています。ですから、大変おもしろいのは西山地区でも関門海峡側と日本海側では全く化石層が違う表面に見られる。これは日本にそこしかないということなんです。

 こんどは先ほどの話、縄文時代。縄文時代はなぜか遺跡がないんです。ただ一つだけ今のところ発見されているのは宮野原(みやのはら)遺跡といいます。宮野原ってどこかみなさんご存じですか?彦島八幡宮のところですね。このへんの少し高い台地状のところから若干の縄文時代の遺跡が出ております。

 ただ、これもおもしろいです。今、彦島八幡宮の前に広場がありますね。この辺が少し今よそから土を盛ってきてならしておりますが、3センチ掘りますともう砂とかれき層小さな石が出てくるわけです。それから約50センチ掘りますと、もう縄文時代がぽんと出ちゃうんです。それからその下を掘りますとですね、またその下は完全に海水に隠れた時代が出てきます。ですからこれを海成層と言いますね。海が作った層ですね。それから約2メートル下がりますと、また縄文時代が出てくるわけです。そういう風にここでは縄文時代が上層と下層の2つに分かれるわけです。

 特に下層から出てくる土器類はですね、これはほとんど今で言う長崎方面、あるいは遠くこの瀬戸内方面での今で言う広島方面の土器が出てくるわけです。今度はその上の上層の縄文時代のものを見ますと今度は北九州方面の土器がたくさん出てきます。あるいは山陰、吉母、土井ヶ浜(どいがはま)につながるものが出てくるわけです。こういう風にして同じ縄文時代でも大きく差があるということはその間に一度完全に海水に潜っているわけです。発掘のデータで見ますと、一番海水が高い時代が今よりも約4メートル海水をあげた地形になるわけです。そうしますと彦島の地形は大きくかわっちゃうんです。ですからここで言えば三井東圧あたりが全く大きな入り江になってしまいます。ここは埋め立てですから当然なくなってしまう。それから今で言う荒田、荒田方面も大きく埋め立てられていますので大きく中に入ります。福浦湾は特に奥に入ってしまいます。それから江ノ浦方面も大きく削れてしまいます。

 こういう風な一番高い時代が平均約4メートル、平均で4メートルです。ですから吉母方面の発掘の例で言いますと一番高いところは海水が約5メートルまであがっています。5メートルあがれば今の吉母の水田地帯は全くなくなってしまいます。こういう地形だということを頭においておいてください。で、縄文時代の遺跡はこの砂浜地帯にしか出てきていないんです。あと、この山方面、我々は宅地開発がありますと必ず発掘をしなければならないんです。で、発掘をした地点で何も出てこないことが多いんです。江戸時代からは出てきます。江戸時代からはこのあたりも遺跡が出て来るんです。縄文時代の典型的に言いますと定住遺跡ではないということです。発掘品の土器などを見ましてこれは定住しているかどうかはわかりませんけれど、必ず今で言うゴミ捨て場があるんです。このゴミが捨てられたところを探してそのゴミを1つ1つチェックしますとこれは1年間中住んだ遺跡ではないということがわかるんです。魚とかそういう骨とかをチェックしますと、冬場はここには誰も住んでいないということがわかります。

 そうしますと今度は弥生時代に変わっていきますが、弥生時代、これが全然ここらからは出てきていません。彦島全域から弥生時代のものは出てきません。これ、どういうことだと思います?1つは生活形態、縄文時代と弥生時代の生活形態がまるっきり変わってくる、ということです。どういう風に変わったかと言いますと、簡単に言えば弥生時代は何か食べ物が伝わってきていますよね、南の方から伝わってきていますよね。お米ですよね。お米が伝わってきているんです。お米にはどういうところが地形的に必要ですか?まず水田ですよね。水田って今で言うかっこいい水田ではないですよね。湿地帯です。湿地帯になるにはどういう地形が必要か、まず水が出なければ行けませんよね、それから平坦地でないといけない。逆に海水が入ってきては困るわけです。そういうぎりぎりの地形を探すにはここでどこですか?彦島にはないわけですよね。

 今、彦島には下関市役所で管轄している川は5本あります。みなさん全部いえますか?ここに一つありますよね、塩田川(しおたがわ)今度は福浦のこの奥に1本ありますよね、塩谷川(しおやがわ)、塩谷川は途中で福浦川と別れているんですけれども、塩谷川はまっすぐ入っているんですけれど、福浦川はここから少しこちら(なかにし注:杉田2丁目方面)に入っているんですね。それから、江ノ浦の方になりますが、江向川(えむかいがわ)。それから、この彦島八幡宮のここに昔は大きく湾が入っていますけれど、今はここまで川がずっと流れています。この谷あいに川が流れています。迫川(さこがわ)。もうひとつ、今はここにありますが、南風泊の方に川が1本あります。波高川(はたかがわ)。

福浦川

迫川

波高川

塩田川

塩谷川

 このくらいの川では地形的に水田がないわけなんです。水田が行われるとすればこの付近になるわけです。この塩谷川付近になるはずなんですが、ここはすごく海水があがって来ちゃうんです。米というのは海水が来るとすぐだめになりますので、これは使えない。そういう風にして生活形態が縄文時代は狩猟時代ですから、海に近いところあるいは山の幸がとれるところに移動しますね、ですから当然春夏秋冬にあわせて移動します。弥生時代は今度は稲作文化が伝わってきましたから、時間がかかります、ということは定住遺跡が必要となります。この定住するには彦島は当時は全く向かないと言うことです。水がない、水田地帯、湿地帯がない、大きな山がない。今はこのあたりはタヌキがいると思いますけど、たぬきばかり捕っていてもおいしくないと思いますし、兎がいい、鹿がいい、そういうところでないと生活ができなかったはずです。ということで弥生時代は全く生活形態が変わったから遺跡が出ないのだと思われています。

 それから古墳時代と行きます。まこれ古墳がないんです。ただ、古墳ではないかといわれているところが一つあります。みなさん行かれたことがあると思います。杉田(すぎた)のバス停の上にありますね。大変石におもしろい文様が書いてあります。これも今下関市の文化財に指定しましたけれど、実を言いますとあれは指定したくなかったんです。でも、保存上文化財に指定して保存しなければならないと言う法律があるんです。そういうわけで保存処置としてしてしたんですが、古墳として出すと問題があるわけです。というのは何も古墳の形態が出てこない。その周辺、文様の書いた石を見られた方はいらっしゃると思いますけれど、その周辺を発掘しても何も出てこないんです。古墳時代のものは出てこないんですね。

 大変おもしろいのはその文様が、あるグループは北九州に多い古墳に見られる抽象画ではないかといわれる方もいらっしゃいます。もう一つおもしろいグループはこれ、シュメールの絵文字ではないか、というんですね。シュメールというのは今で言うイラン・イラク方面ですが、ただ私たちはシュメールが、シュメールの文字がなぜ彦島に来たのか、ということは疑問なんです。当然ちょっと難しい。証明はできないです。というのはシュメール、イラン・イラク方面からインド方面を通って今で言うフィリピン、台湾、沖縄、この近海を通って九州南部あるいはその周辺を通ってこちらの方にシュメール文字が展開しておれば証明はできます。でも、何も途中になくてひょこっとイラン・イラク方面からここだけ伝わっているというのはちょっと考えにくいわけです。そういうわけでシュメール文字もちょっと違うんではないかと思います。

 ただ一つ我々が思うのはあの文字の形態、それから石が1つしかない、ということから祭祀遺跡ではないかと思っています。わかりますか、祭祀遺跡。お祭りをする場所であります。何かそういう変わった宗教的なものがあったと思います。そうしますと、祭祀遺跡とみますと証明できるものが近辺にたくさんあります。琉球列島、薩摩列島、あるいはここで言うと山陽方面、角島(つのしま)方面にも同じようなものがあります。そういう風な祭礼的な場所、儀式として使う場所であれば大変おもしろいですね。そういうことを小学校の授業で言いますと、じゃ、石の上で生けにえになったん?といわれましたけれど、そういうものもあったかもしれません。それは石の上をいろんな調査をしてそういうものが出てくればおもしろいですけれど、こういう祭礼的な遺跡としてみれば彦島は大変おもしろい、地形的な場所があると思います。ということで古墳時代のものも一切出てきていないということになります。

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