ふるさと彦島の歴史を学ぶ集い

ふるさと彦島の歴史を学ぶ集いの目次に戻る
彦島の各地名について
古代生活痕跡遺跡について
有史・古文書に見られるようになった頃の彦島史
彦島から山陰方面の民族史
質疑応答

彦島の地名について

 伝説といえば、3年くらい前になりますが、本村(ほんむら)小学校の6年生の授業で「彦島の民話何か知ってる?」て言ったら半分くらい手を挙げました。何の民話だと思いますか? 彦島の民話で有名なの、みなさん何があると思います? 「クジラの願い」というのをご存じの方いらっしゃいますか?これ、子供たちが良く知っていました。


 彦島の漁村に伝わっている、漁師の方の中で伝わっている話なんですが、ある漁師の夢枕にクジラの夫婦が現れまして、「明日、病気の子供を連れて関門海峡を通るから、響灘から瀬戸内海の方へ通るから撃たないでください」とお願いをして消えたわけです。福浦(ふくうら)の方に俯瞰台(ふかんだい)という地名がありますが、大山(おおやま:右写真:参考)、福浦湾の入り口のところに高い山があります。 そこが見張り台となっております。そこにいた見張り番が「おいクジラが来たぞ」ということで、その声で目を覚ましたその漁師が子供のクジラに一番銛を撃ってしまったんです。で、彼は意気揚々として帰るわけです。クジラ漁で一番銛を撃った漁師はクジラの一番良い肉をもらって帰れるわけです。で、意気揚々と持って帰ったら家の前がなんだか騒がしい。家に入ってみますと自分の子供が大熱を出して苦しみもがいて死んだんだそうです。よく考えたら自分が子クジラを撃った時間と自分の子供が死んだ時間がちゃんと符合するわけです。そういうことからこの彦島の漁師の方たちは夫婦、あるいは子連れのクジラを捕らなくなった、というお話なんです。

 これが大変おもしろいのが、同じような話が長府(ちょうふ)の漁村にも残っていると言うことなんです。この意味するところは、響灘から瀬戸内海に入るクジラは捕ってはいけないということが民話として残っていると言うことなんです。これがどういう風にして彦島と長府がつながるかというと、浜浦台のバス停の下にヤスモリという焼き肉屋さんがあります。ここがおもしろいことに鯨場(くじらば)という名前がでます。調べますとここが長府藩のクジラの解体場所なんです。ということで鯨場という小字が付いているんです。ですから彦島にもくじら、今の「鯨」という漢字を空想しないでください。ひらがなから、あるいはヒアリングから「くじら」というのに近い地名が何かないかということを教えていただきたいんです。

 ですから、関連で言いますと、ここに、塩浜町民館のすぐ向こうに今サンデンがありますね、鉄工所があります。これをリンゴ山という風に聞いております(右写真はかつてリンゴ山があった場所の現在の様子)。で、このリンゴ山というのがいつ頃から言われているのかっていうのが疑問なんです。これが江戸時代の地名でもリンゴ山というのだったらこれは大変な日本の学術上の発見なんです。なぜかわかりますか?リンゴというのいつ頃伝わってきたか、ということなんです。これは明治なんです。明治のはじめに伝わってきているんですよね。ですから江戸時代からリンゴ山と呼ぶわけがないんです。ここにですね、ポルトガルじゃダメですね、北欧の国から船が入ってリンゴをそこに置いたら別ですけどそれはちょっと考えられません。ということで「リンゴ」という発音に近いものを私は探しているんです。

 たいへんおもしろいのがあります。福浦湾というのはみなさんご存じのように江戸時代は北前船で大変にぎわったところですよね。そうしますと、各国の船から荷物をここで一度下ろす必要があるわけです。ということで船倉があったはずなんです。そういう倉庫的なものがあったはずなんです。その中でこの北前船でたいへん有名なのが備後方面の船なんですよね。そうしますと、備後の船倉があったところからいつの間にか備後山となり、そのうちに、みなさんの頭の中にはおいしいリンゴのことしかなくリンゴ山と発音が変わったのではないかなという風にも考えられます。ですから、今、備後地方、岡山方面に昔の北前船で活躍していたと資料が残っています。その中で彦島、福浦、備後の倉庫はどこにあったかと調べています。その中で出てくれば大変おもしろいですよね。ですからリンゴ山、ですから、お年寄りの方であそこに本当にリンゴの木があったということを聞いたことがありますか、ないと思いますよ。そういう点でヒアリング上、ですから今はみなさんリンゴ、カタカナでリンゴしか頭にないですが、それに近い発音というのを私たちは追いかけているんです。そういうことでこの地名が出て来るんです。

次へ・・・古代生活痕跡遺跡について

日子の島TOP彦島の歴史