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造船業の危機 世界の造船業は、1985年頃から、1974年〜1979年の第一次造船危機につぐ第二次造船危機の時代に突入しました。世界的な景気低迷と海運不況によって造船業の受注量・建造量が激減し、減産と設備廃棄を余儀なくされ、工場閉鎖、雇用削減、ドルとリンクする為替相場をもつ韓国の価格競争力が強化が日本の造船業を襲いました。その結果、三菱重工業を除く造船業界各社は1985年から一斉に雇用合理化計画を発表しました。 1986年6月25日、海運造船合理化審議会(海造審)は、中手・中小造船のドラスティックな再編成をめざした答申を行ないました。その中では(1)基数単位での設備削減、(2)集約化による産業体制の整備、が強調され、それはすなわち、設備削減による廃業か、大手へ吸収されるかといった厳しいものでした。 彦島田の首一丁目の林兼造船は捕鯨船建造の船台としては世界一を誇っていましたが、乱獲でクジラの数が減ったうえ、国際的な保護機運が高まる中、1965年にミンククジラ捕獲専用船を進水させたのを最後に、捕鯨船建造から撤退。以後、フェリーや海外向けの特殊船に活路を見いだし、約1300隻が生み出されました。 1938年、当時の林兼商店(元大洋漁業、現マルハ)が使う船舶を建造するために創立された林兼造船も上述の通りのオイルショック、造船不況、円高の荒波を受け、1988年、解散しました。第三工場は運輸施設整備事業団(本部・東京、元特定船舶製造業安定事業協会)に売却。市などに跡地利用を呼び掛けたものの、13万平方メートルもの広大な敷地の一括利用が足かせとなり、結実しませんでした。結局、2002年民間企業(サニックス)が買収し、リサイクルガーデンとして再生される見込みです。本社のあった修繕工場(第二工場)は、別の会社と合併し、現在のサンセイ下関工場として残っています。 林兼造船第三工場で建造された船
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