水雷発射基地
その1その2その3

 サンデン交通弟子待行きの路線バスはオイルターミナルとその跡地の間の細い道を通って終点は「弟子待3丁目」です。ここからさらに西へ進み、突き当たりを海側に曲がり、道の曲がりに沿ってどんどん奥へ進んで、数軒の家が並ぶ宅地を通り抜けると水雷発射基地に着きます。

 水雷基地といっても現在姿を見ることができるのは煉瓦づくりのトンネルとそこから海へのびる石造りの突堤だけです。休日には釣り人でにぎわうこの突堤、地元の人でもこれがそもそも何なのかを知っている人は少ないようです。

 日露戦争が勃発し、明治35年、ロシアのバルチック艦隊が日本へ迫りました。この艦隊が万が一、関門海峡内へ侵攻してきた場合、これを迎え撃つ水雷基地として同年、この突堤とトンネルが建設されました。

 「彦島風土記」(澤忠宏著)によると、この突堤上にはレールが敷かれており、かつて海軍山と呼ばれた山に掘られたトンネルは水雷貯蔵庫だったそうです。しかし、ロシア艦隊が関門海峡に来ることはなく、一度も使用されないまま放棄されました。

 私が小さい頃はこの突堤の脇に鉄骨づくりの構造物、海水浴場の海中にある飛び込み台のような物がありましたが、現在は撤去されています。あれはなんだったんでしょうか??

 また、かつては、ここへ入ってくる道は弟子待側からだけでしたが、現在は彦島南公園の遊歩道からここへ来ることもできるようになっています。上の写真はその遊歩道から撮影したものです。上方に見える陸地は関門海峡の向こう側、北九州市門司区です。

 なお、明治35年に作られた突堤は平成3年9月28日日本海を北上した台風19号によって大部分が破壊され、現在姿を見ることができるのはその後に修復されたものですが、当時の石積みを現在の技術で再現することができなかったとのことです。


 彦島在住の中村様から写真のご寄稿をいただきました。

 上に掲載した写真とほぼ同じアングルから1984年頃に撮影されたものです。上述の鉄骨の構造物が写っています。この構造物についても解説をいただきましたので原文をそのまま紹介させていただきます。

 水雷発射台は, 十七年くらい前の雪の降った日です。
 この写真に見られる海中の鉄の搭は、門司側の海底調査に使われたもので、使用済みになった物を業者が此処に持ってきて放置していったものです。(年代は解りません)  撤去されものではなく、例の台風十九号だったかと思いますが、自然倒壊です。暫く海中に横たわっていましたがその内見えなくなりました。多分海中には多少の残骸は、まだ有るのではないでしょうか。
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アクセス:サンデン交通弟子待行き・「弟子待3丁目」下車