この写真は水雷発射基地の水雷貯蔵庫です。明治35年に、日露戦争におけるバルチック艦隊迎撃のために構築されましたが、ロシアに勝ったために一度も使用されることがありませんでした。このトンネルからまっすぐと関門海峡に向かってのびる突堤にレールが敷設され、水雷が発射される計画になっていました。
水雷発射のメカニズムなどについて下関市在住の軍事アナリストTAKA氏にお話を伺いましたので以下に紹介させていただきます。
日露戦争当時 主はあくまでも砲撃戦だったと思います。アドミラル東郷を世界的にしらしめた 敵前大回頭、T字戦法とかトーゴーターンなんて言われている戦法もあくまでも戦艦を中心とした砲撃戦用のものです。水雷(魚雷)についてはその前哨戦又は掃討戦艦砲撃戦中の補助?として考えられていたようです。もちろん活躍の如何によっては主役となり得る物でレーダーが戦場に投入されるまでの日本の水雷艇や駆逐艦の命中率は当時としては驚異的なものだったらしいです(夜戦は特に)。ただ、その破壊力は艦砲の比ではなくかなりのもので1発で数千トンクラスの艦船なら沈没するので発足以来日本軍は伝統的にこれら水雷戦に力を入れていたようです。
弟子待の水雷基地を考える際に問題となる当時の水雷発射方式は基本的には今も変わりないようです。圧搾空気を使って魚雷を発射管から放りだすような物です。関門海峡についてはその幅も狭くまた潮流も早く複雑なため魚雷を用いて通峡する艦船を攻撃するとは考え難いと思います。問題の突堤が水雷用と言うことであればたぶん水雷艇戦隊の補給用積み出しに使っていたのではないのでしょうか?又は海峡の出入り口を守る水雷艇戦隊の基地だったとか。海峡に入って沈めるよりそのかなり手前で沈めた方が航路保全面からも合理的な戦術と思います。
資料によりますと明治37年当時 旅順のロシア艦隊は 戦艦7 重巡4 軽巡8 他小艦艇19。迎え撃つ日本連合艦隊は、戦艦6 重巡6 軽巡8 駆逐艦19。これに大西洋からバルチック艦隊(旅順艦隊と同規模)が回航されて来た場合敵の戦力は倍になるわけです。でもって東郷さんが取った戦法は、各個撃破、まず旅順艦隊を旅巡港内で撃破したのち例の日本海大海戦で有名になった海戦でバルチック艦隊を迎え討ったわけです。
前置きが長くなりましたが、資料をあたっても当時の水雷発射方式は発射管による物が殆どでそれも水雷艇によるものだったみたいです。潜水艦は第一次世界大戦のドイツのUボート出現まで待たなくてはいけません。戦略的にはバルチック艦隊が旅順に入った時点で GAME OVER で負けが確定するわけです。これから考えると太平洋から日本海に入るため通過しなくてはいけない海峡は対馬、津軽、宗谷の三海峡が候補にあがりますが津軽海峡にしても要塞砲の射程範囲で通峡対象外だったので関門海峡を通過する事は考えられないと思いますよ。
資料見たのですが、そのーーー話の時代背景がが明治から昭和とだいぶ錯綜していますね(あくまでも兵器の発達の歴史)ひとつの兵器が有効的な使用方法を獲得するまでには結構面白とんちんかんな使い方をされることは珍しくありません。
水雷(魚雷)は自走式機雷と呼ばれ、防御兵器のひとつとして捉えられていた時期もあったみたいです。その後の運用法の確立から主に艦船搭載兵器として発達して行ったみたいですね。太平洋戦争当時回天の開発施設のひとつにも陸上からの魚雷発射施設はあったと記されています。
アクセス:サンデン交通弟子待行き・「弟子待3丁目」下車