シリーズ・彦島を歩く「弟子待〜検疫所裏〜江ノ浦」

ルートマップ 彦島島内をスポットごとに紹介する「写真集彦島」に対して、あるルートに沿って歩いてその沿線の風景を紹介する「シリーズ・彦島を歩く」1回目は弟子待〜江ノ浦三菱重工前までを海岸線に沿って通り抜けるルートを紹介します。

 弟子待は彦島の東南の海岸線に沿った町で、その昔この地をさして「弟子待の三軒屋」と言われていたことからわかるように、三軒の本家とその分家で1つの集落を形成していた漁業を中心とした一寒村でした。

 「弟子待」の町名の由来は一般にはその文字の通り、「弟子が待つ」すなわち、慶長17年(1612)4月13日の武蔵と小次郎の巌流島の決戦の際、巌流島の決戦場に対岸の小倉から船で向かった佐々木小次郎の弟子たちが、師佐々木小次郎に島へ上陸しての助太刀を止められ、巌流島からほんの200メートルばかり離れたこの地にとどめ置いた、そこから「弟子待」の名が生まれたと言われています。しかし、下関市教育委員会発行の「下関の地名」の「弟子待」の項の記述には、「菅原道真が寛平四年(893)に完成したといわれる『類聚国史(るいじゅうこくし)』には「淳和天皇天長7年(830)5月以来長門外島一処為勅旨田、但其内之公私田地公験炳然不在此例」という記載があり、『防長地名淵鑑」の著者御薗生翁甫はこれを解説して「"外島"とあるのは、実は"引島"のことで、外と引との草書体が良く似ているので間違ったものである。また"勅旨"はテシとよむので、もともと勅旨町だったものを"弟子待"と誤って使うようになったのだ……」とされています。

 また、澤忠宏氏の「彦島風土記」においても「弟子待の地名由来は諸説あるが、朝鮮通信使の書記が享保4年(1719)に書かれた『海遊録』の記述に白馬塚がこの地に見られることであり、さらに千年を越えてまだ現存すると書いてあるところからも確かに記述者が見聞したものと思われる。日本書紀に、淳和天皇の天長7年(830)にこの島に勅旨田が置かれていたとある。この田は一般には田畑の意に解されるが「マチ」と読み、古代においては郭であり、後世に田に丁を加え甼となり人の集まる集落で町となった。 従って、前述の海遊録の記述にも、千年を越えて・・・・とあり推定されるのは当時朝鮮のいずれかの国から侵攻されたため、関門の要衝の地である彦島の海峡に面したこの場所に防衛の前線基地が置かれ天領として、防人たちの駐屯地であったもので、勅旨田が先行した地名であったと解さられる。」と記述されています。

 下関駅からサンデン交通弟子待行きのバスに乗ると、この地で命を絶った平家官女の墓石の下から水がわき出たと言われる伝説の地「姫の水」を経て、海に向かって坂を下りその逆の行き止まりで「弟子待」というバス停に着きます。数年前はここが路線バスの終点でしたが、現在はさらに田の首方向に彦島南公園の付近まで路線が延びています。ここでバスを降りると石油会社の油槽所が目に付きます。文久3年(1863)攘夷戦けっこうの期限が決まると彦島島内各所に砲台の建設が行われましたが、この弟子待にも萩(山口県萩市)の荻野隊及び長府(下関市長府)より派遣された兵士の駐在する砲台が建設されました。この駐在騎兵隊の中に福田という人物がいましたが、この福田氏はこの後、明治中期に、地元の植田氏らと協力してこの弟子待の海岸約1万平方メートルを埋め立て、貯炭場を開設しました。その貯炭場の跡地が現在見ることのできる油槽所です。

 この油槽所地帯から江ノ浦方面へ抜けるルートは、車両が通行可能なものは昔からかつての杉田堤(現在の三菱杉田ストア裏付近)を経由する大回りなルートしかありませんでしたが、人は海側を通って抜ける近道がありました。昭文社発行の1:16,500下関市街地地図を見ると、この道は凡例上のもっとも細い道として記されています。

 小さい頃私はこの道を何度となく行き来しましたが、このページの執筆のために97年8月8日、およそ20年ぶりに弟子待から江ノ浦に向かって歩いてみました。

写真1
 出発点の弟子待までは杉田のバス停からバスに乗りました。杉田バス停は何度かその位置が変わっていますが、現在の場所は杉田岩刻画、清盛塚のある丘陵から坂を下った正面にあります。バス停でバスを待つ私の後ろには三菱重工業の社宅がありますが、昭和10年代、ここは大きな堤で、バス停から弟子待に向かう大きく弧を描いた道路はかつての堤防でした。関門鉄道トンネルは彦島から海底トンネルに入りますが、このトンネルを造る際に掘り出された土石で杉田堤を埋め立て現在の社宅が建っています。
 平日の昼間ということもあってか、数分早くやってきたバスに乗っているのはお年寄りが数人と、高校生らしい女性が1人だけ。杉田を発車したバスはバス停を出てすぐの交差点を左折して弟子待へ向かいます。バスが離合できる程度の道幅の道路を右に左にとカーブしながら姫の水を通過すると、目の前が急に開けてバスは海に向かって坂を下ります。この坂を下りきったところが弟子待のバス停で今回の「彦島を歩く」の出発点です。バス停のある三叉路そのものは海には面していないのですが、そこから東の方向に少し歩くと写真の地点に出ます。左側に見える山々は九州です。この日は台風が接近しているということで、少し波がありましたが、非常によい天気でした。写真は今歩いてきた道を振り返って撮影しています。

写真2
 この海沿いの道をしばらく歩くと日本グリース下関工場の正門跡があります。道はここで左に90度曲がって山の方の向かいます。50メートルほどで今度は右に90度曲がると日本グリースの現在の正門があり、それを過ぎると道はアスファルトの舗装がなくなり山道となります。

写真3
 山道と入ってもこの奥にはまだ民家がありますので道幅は自動車が通れるほどの幅があります。途中に「この土地は学校法人上智学院の用地に付き用地内に立ち入り、伐木、耕作に使用を禁じます」とかかれた昭和48年付けの告示の立て札が倒れていました。

写真4
 道の右手には日本グリースの工場が並んでおり、その向こうには巌流島が見えます。巌流島へはこの付近がもっとも距離が近く、島の様子が非常によくわかります。写真では工場の屋根と重なるように見えている緑の部分が巌流島です。

写真5
 以前はもっとたくさんの民家があったような気がするのですが、現在残っている2,3件の家の前を通り過ぎると道は急に細くなり、伸びたい放題の雑草がさらに道を狭くします。頭上は左右から雑木が覆い被さり、海も見えなくなりました。写真ではよくわかりませんがこのあたりはかなり急な坂道で、それに加えて台風に伴う雨のために足下はぬかるみ状態で、結構悲惨なことになっています。

写真6
 足下を泥だらけにしながら滑って転ばないように気を付けて山を登っていくと、ちょっと目の前が開けます。昔は家があったのか、それとも畑だったのか、道路の左側にわずかな空き地があり、さらにその上には住宅地「ひまわり台」が見えます。

写真7
 ・・・が、それを過ぎると道はますます細くなり、人一人がやっと歩ける程度。前にも後ろにも誰もおらず(いたらかえって怖いかもしれない)、心細くなって何となく早足になっていきます・・・。20年前はここまでひどくなかったような気がしますが、バス路線の充実やマイカーの普及でこんなところを歩いて移動する人などいなくなったと言うことなのでしょう。

写真8
 不気味さと寂しさで写真を撮るのもそっちのけで山の中の道なき道をしばらく歩くと、海側を覆っていた雑木がなくなり、道が明るくなります。ここは門司検疫所の裏山で、写真に見える海の向こうの緑色の陸地は巌流島でさらにその向こうは九州です。

写真9
 巨大なクレーンの林立する三菱重工業下関造船所が見えるとこの山道は一般の生活道路に接続して終わりとなります。写真中央右側には海峡ゆめタワーが見えます。

 今回歩き通したこの道は、巌流島にもっとも近い地点を通るルートです。巌流島は下関の観光資源(とはいえない状態ですが)の中では全国的に有名なものの1つ(というか、唯一の全国レベルの知名度の地だと思います)ですが、巌流島を見ることのできる場所が全くないのが現在問題となっています。巌流島を展望するには今回のこのルートの途中よりも、さらに山がわの住宅地ひまわり台からの方がよいとのことですが、そこは完全な住宅地で、展望台を設置するような土地は残されていません。展望台を設置すると絶景であろうと思われる位置にも民家が建って、その景色は個人の所有物となっています。
 知人から聞いた話では、下関に来た観光客が彦島を訪れ「巌流島を見たいのだがどこに行けばいいのだろうか」と尋ねられたとのことです。そんなときに、巌流島にもっとも近い彦島には巌流島を展望できるような場所はありません。巌流島を見ようと思えば、漁船を出してもらう(釣り人のために有料で漁船を出してくれる)か、海峡ゆめタワーの展望台から見るかしかなく、せっかくの歴史的(巌流島の決戦が史実かどうかは議論のあるところですが、有名な地であるには違いないので)観光資源があるのにそれを生かせていない行政の観光政策には疑問が残ります。「ひまわり台が分譲されたときに一番良い場所を市が確保するべきではなかったのか」との声をホームページ「彦島」取材の際に耳にしました。
 三菱重工業も巌流島の観光化に協力するとは言っているとのことですが、資材置き場としての有用性が高い点と、収益性の点を考えると冬場の観光客の動員が難しい点のため、率先して観光化に動く気配は見られず、このルートから見える巌流島にも造船所の対岸付近には巨大なコンクリートブロックや鉄製の船舶の残骸などが放置されたままになっており、非常に残念です。
現在の巌流島

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