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■弟子待(Deshimatsu)
    

 彦島の東端にある"弟子待(でしまつ)"の地名の発祥は、俗説に宮本武蔵と佐々木小次郎が舟島で決闘したとき、小次郎が弟子たちを待機させた場所だから……というのがありますが、菅原道真が寛平四年(893)に完成したといわれる『類聚国史(るいじゅうこくし)』には「淳和天皇天長7年(830)5月以来長門外島一処為勅旨田、但其内之公私田地公験炳然不在此例」という記載があり、『防長地名淵鑑」の著者御薗生翁甫はこれを解説して「"外島"とあるのは、実は"引島"のことで、外と引との草書体が良く似ているので間違ったものである。また"勅旨"はテシとよむので、もともと勅旨町だったものを"弟子待"と誤って使うようになったのだ……」としています。
(下関市教育委員会発刊「下関の地名」より許可を得て転載)

ふるさとの言い伝え(市報「みらい」 2002年12月15日号より許可を得て転載)

 今から390年前の慶長17年(1612年)4月13日、佐々木小次郎は舟島(現在の巌流島)で二刀流の剣豪・宮本武蔵と真剣勝負をするために小倉から船に乗り、目的地に向かいました。船をこぐろの音も小次郎の耳には聞こえません。ただ思うことは「今日こそ最期を決する日だ。小次郎か、武蔵か。わしの考え出したツバメ返しの剣法で必ず武蔵を破ってみせる」ということでした。
 舟島が目の前に近づいた頃、ふと後ろを振り向くと3隻の船がこちらに向かっています。よく見るとそれは皆小次郎の弟子たちで、20人くらいがたすきを着け、戦いの姿をしており、先生の小次郎にもしものことがあった場合、応援しようと駆けつけてきたのです。それを知った小次郎は大声を張り上げ、「勝負は時の運である。もしお前たちの応援で勝てば小次郎の名が廃る。すぐさま引き返せ」と叫びました。
 その声にびっくりした弟子たちは進むことも帰ることもできず、仕方なく近くの岸に船をつけて、小次郎と武蔵の勝負が決まるまで待っていたといいます。こうしたところから、この土地の人たちは弟子たちが待っていた場所を「弟子待」と呼ぶようになりました。この決闘で佐々木小次郎は敗れましたが、小次郎が巌流と名乗っていたことからそれ以後、舟島も巌流島と呼ぶようになったのです。
 弟子待の地名の起こりについては「類聚国史(るいじゅうこくし)」という古い記録の中の店長7年(830年)の項に「長門外島一処為勅旨田」の字句があります。外島というのが彦島のことで「田」は「マチ」ともいうので、「勅旨田」は「てしまち」とも読み、従って、武蔵・小次郎の決闘よりも800年も前にすでにこの呼び名があり、その後の決闘をきっかけに「弟子待」という字が当てられたのだという説もあります。

 

 


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