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福浦港いま・むかし

大正10年ごろの福浦港

2000年に撮影した福浦港
福浦湾(2000.7.20)

 彦島の「福浦」も日本海沿岸各地に存在するその他の「福浦」と同様、江戸時代中期頃より栄えた北前船西回り航路の寄港地として発展した湾の奥まった良港でした。また、「新平家物語」(吉川英治著)には壇ノ浦の合戦の前、安徳天皇の御座所がこの地に設営されたと記述されています。

 「栄える彦島」によると、福浦湾が帆船の風待ち、潮待ちのための寄港地となったのは16世紀にまで遡ります。この当時の長府藩主は毛利甲斐守、郡代は水野茂兵衛忠実でしたが、忠実はこの地に金比羅神社を建立し、入港する船に神官が出向いて航海安全を祈願させたことが評判となり、日本を代表する港へと発展していきました。また、この金比羅神社の維持費は入港する船から初穂料として米一升を取り立ててそれを充てていましたが、入港する船が増えるにつれて次第に多額となり、忠実はこの初穂料を神社の維持の他、貧民救済にも活用したため、福浦の街はさらに発展を続けました。

 17世紀になって西回り航路の帆船の入港が盛んとなり、それに伴って、停泊する船への水や食糧を供給する商人が対岸の小倉方面より入り、次第に水夫相手の宿屋が建ち並び、やがて歓楽の港へと姿を変えていったとのことです。福浦の遊女の特長は沖出惣嫁と言われ、日中は港のそばの小屋に控えていますが、風待ちの船が入港すると、遊女は小舟に乗ってその船まで出かけていき、売春だけでなく、料理、洗濯までこなし、船員の労をねぎらいよく面倒を見たそうです。この方式は陸上に宿泊の施設を準備する必要がないため、非常に低料金でサービスを提供することができ、この点でも日本中の評判となりました。

 その後の郡代水野子文は福浦港修築工事を行い、また、金比羅神社のある山に灯台を設置し、夜間の航行の安全を図るなどの善政を行いました。灯台が設置された場所は、下の写真で見たちょうど稜線上の中腹だったそうです。

福浦湾(2000.7.20)

 福浦の全盛期は江戸時代中期で14〜5の遊女屋と250人もの惣嫁がいたとのことです。しかし、明治の時代となって船が動力を持ち、風待ち、潮待ちをする必要が無くなると次第に福浦の港も衰退し始めました。一説には、蒸気船を持つ商船会社は依然として福浦の港を寄港地として希望したそうですが、地元商人が蒸気船の入港をかたくなに拒んだため、対岸の門司にその地位を取って代わられたと言われています。そして、明治30年頃にはかつての繁栄はなくなり、海沿いの一寒村に戻ったとのことです。

 しかし、幸運にも明治末期になって金比羅神社の麓に家畜検疫所が設置され、その後、日本で5港の家畜輸入港のうちの1つに指定されて再び福浦の港が脚光を浴びることになります。上の写真はその頃のものです。家畜検疫所についてはまた改めて別項で紹介します。

 天然の良港も現在は開発・埋め立てが進み、湾はずいぶん小さくなり、一時は輸入木材の基地になっていましたが、合板工法の撤退と共にそれも廃れ、今では時折漁船が出漁していく寂しい港になってしまいました。

サンデン交通バス「彦島営業所」・「福浦本町」行「福浦郵便局前」下車

 

 大正10年の写真は下関市発行「しものせきなつかしの写真集」から転載しました。このサイトは非営利かつ彦島をインターネットを通じて世界に紹介するという目的のもとにおいて、市の出版物・資料の転載許可を得ています。


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