彦島の文学 彦島に関する文学で一番大きな物は源平に関する物になってくるかと思います。特にこの彦島というのは平家の里と言われていることからもわかりますように平知盛卿の所領地で、屋島の戦いで敗れて彦島に参りまして砦を築いた、これは、物の本には根緒城(ねおじょう)と書いてあるのですがどこに作られたのかわからない。私はやはり天然の良港がある福浦かなぁと思ったりするわけです。平家はそこから船出を致しまして、当時の田浦に終結しまして、源氏の方は長府の沖合の満珠干珠の方に布陣して戦いを行った、これが源平最後の壇ノ浦海戦になってくるわけです。 それは平家物語の中に「平家は長門の国引島にぞつきにけり」、というのがあるわけでなんです。これは、この彦島は引島といっておりましたね。引島。これが何で彦島になったというのは要するにずっと引島できていたのですが、幕末、今から130年前くらい前、外国軍艦が関門海峡を通っていくのでそれを長州藩は砲撃するわけなんですね。その前に、砲台を作ったわけ訳なんです。彦島では竹の子島の砲台とか、山床の砲台とかがるわけでなんですが、砲台を築く、そして、外国軍艦が入って来て攻撃をするときに引島に台場を築くなんて、引島では退却の意味があるわけですから、それはマズイという殿様の命令でそれまでにもいわれていた彦島に統一されました。 この彦と言うのはどういう意味があるかというと、「日子」これは「ひこ」といったり「ひのこ」といったりしますが、これが語源なんです。この意味があるわけです。「日の子」というのはお日様の子供のことですからどういう意味があるかというと、男の子、男子一般ですね。男の人の美しい呼び方だったんです。それともう一つ、人徳のある方、という意味がありました。じゃ、女性は何だというと、「日の女(ひのめ)」つまり「姫」の意味合いがあるわけです。日の女というのは美しい女性の呼び方なんですね。ですから、この彦の中にはどういう意味があるかということを考えていただくと、彦島に住むことに誇りを持っていこうという気分になるのではないかと思います。 それからもっともっと大昔のことを言うと、仲哀(ちゅうあい)天皇、神宮皇后のことになると思います。神世の時代になります。仲哀天皇と、日本書紀の世界ですが、神宮皇后さんが長府に豊浦の宮(とよらのみや)を作られました。何で下関の長府に豊浦の宮を作られたかというと、これは仮の宮殿なんです。仮の宮殿をどこに造られたかというとおそらく忌宮神社さんがありますよね。お祭りでは数方庭祭、竹竿を持っての堀を持って境内を回る、女性と子供は切り子という短冊を持って境内を回る。どこを回るかというと鬼石というのを回る。じゃ、鬼石って何だろうかというと、敵の酋長、豊浦の宮まで敵の酋長が攻めてきてこれは危ないぞというときに仲哀天皇が弓を引き絞って敵の酋長を射殺す訳なんです。そしてその首を取って境内に埋めてそれが鬼石なんです。石の表面に人のような鬼のような模様があるのが鬼石なんです。 その周りを竹竿を持って回ったり切り子を持って回るというのは勝利のお祝いなんですね。そういう日本でも珍しい、天下の鬼才といっておりますけれども、そういう数方庭というお祭りが8月に1週間くらい行われています。この仲哀記に仲哀天皇が豊浦の宮から、香椎の宮に行くときに、誰が迎えたかというと、イトノアガタノヌシノミヤイソトデという人が仲哀天皇をお迎えして今の彦島八幡宮、宮野原にお迎えした、というのが日本書紀なんです。こういった具合に文献では日本書紀、平家物語に実は彦島が出てくる。ということになります。 つぎへすすむ・・・廻浦紀略(彦島到着まで)
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