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ふるさと彦島の歴史を学ぶ集い
 その2
 文学の世界から見た彦島

イントロダクション
□廻浦紀略
  彦島到達まで
  彦島での足跡
  萩へ

 

ふるさと彦島の歴史を学ぶ集い
その2

−文学の世界から見た彦島−

■廻浦紀略(彦島での足跡)■

講師
元下関市市立図書館館長 野村 忠司 氏

1998年2月21日
於塩浜町民館
主催:彦島第五自治連合会

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 伊崎から出る漕船はみな三ツ星(毛利の一に三ツ星)と桐の紋章の付いた本藩の小旗が立ててある。漁船とかねて軍船にも用いるからである。船で筑前(福岡県)の若松を右に見て南風泊に繋泊し、小舟で竹の子島に上陸して一の台、二の台、六の台の台場を見た。六の台だけがせきたを築いていた。足軽(身分の低い武士)の番社があった。ここを見てから小舟に乗った。島の人家は23戸あって石高は六石五斗である。どの島も甘藷(かんしょ・サツマイモ)を植えているがこの竹の子島はことに多い。
 引島(彦島)に上陸し、獅子口の台場を視察した。島の形勢は、蓋井、六連の二島が瞼しょう(険峻の誤りか?)で竹の子島は平坦である。九つ時(正午)少し下げ潮になったのでいかりを上げて引島の外側周りで船を進めた。

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 前小島(舞子島・現在は埋め立てられてない)、江ノ浦に着いた。島には海岸に岸壁がそびえ、浦の浜手は二町くらいある浜手が終わって福浦まではまた山脚が海に浸って瞼岨である。右の方、関門海峡の対岸の小倉を見ると人家の大小や樹木の粗密までが手に取るように近くに見える。福浦の入り口左肩の金比羅山に灯籠堂があり、九州から来る船が夜間海峡通過の際の目印にする。
 田ノ首を過ぎ、成瀬(なるせ)の内側を通る。田ノ首の数十戸はだいたい粗末な茅屋である。
 右の方(海峡の対岸の)豊前の国、内裏(門司市大里町)の人家を見ると、その浦里の距離はおよそ十町ばかりもあるようだ。その浜手の松林の間に長崎奉行の御用屋敷、小倉の御舟倉、また九州の諸藩の関(下関)へ渡る舟などがずらりと並んでいる。

 ここで勉強になるのは平家物語では豊前の国大里というのは彦島に砦を築く前に一度九州の方に平家は行ってるんですね。でも、九州も源氏の勢いが強いのでまた屋島の方に戻るわけなんですよ。仮の御所、安徳帝がお住まいするのが内裏、これが大きな里という漢字になって大里、北九州の門司の方もそういう平家物語伝説というのはいろいろあるんです。柳の御所とかですね、柳ヶ浦。そういうのは平家伝説の地名が残っているんですね。

 与二兵衛が瀬は満潮の時は水底に没するのでその上に石を積んで船舶が通航するときの安全のしるしとしている。

 これは明治になって取っ払われましたね。この与二兵衛が瀬に立っていた石碑が下関にあったのですが、今は北九州市の郷土史家が今、和布刈の方に持っていって立てていますね。そんなことで、下関側は第四港湾、いま取っ払ってあそこに観光市場を作ろうとしていますが、その一角に与二兵衛が瀬を復元してあります。

 巌流島を左に見、豊前の芽刈(門司市和布刈・めかり)の明神の祠を右にと遠く見て、海峡を亀山八幡宮の下まで行き、舟の方向を変えて引き返し、竹崎で着船した。亀山から竹崎まで町続きを歩くとおよそ一里と言われる。
 本藩領の伊崎の人家は、以前には三百戸ほどもあったが、長府領と網代(あじろ・魚の取り合いこ)の争いがあってからは生計も苦しくなり、人家はだんだんと減って今は二百五十戸ばかりである。
 関屋松兵衛(伊崎でつけ舟業を営んでいた)宅を宿とし、入浴後、町筋を通って会所(新地会所といい、今日の上新地町にあった)をたずねた。物頭役林八右衛門、三浦与右衛門、八幡改方(ばはんあらためがた・抜買改役ともいい、密貿易を取り締まる役)吉田久左衛門の小屋に行き、帰って宿で寝た。夜、物頭、八幡方、検使、筆者役らがやってきた。

 関屋松兵衛というのは伊崎の厳島さんの前に表札が立っています。関屋松兵衛宅跡と書いてあります。そこには吉田松陰がここに泊まりましたよといういわれが書いてあります。今でいうパイロット、水先案内人、それから宿屋もやっていた、ということなんですね。ですから、この貴重な関屋松兵衛宅跡と言うのは吉田松陰を考えるときにかなり大事な史蹟になっている所なんですね。


spe6_6.jpg (18712 バイト)7月16日
 小舟出てで福浦に行った。伊崎から二里あまり。金比羅山に登って灯籠堂の側にある台場を検視したが、まだ台場は築いていない。自分は好奇心から灯台に登って燈箋をのぞき見、油銭の出所をたずねてみたところが、案内人が「船舶が多く繋泊したとき、求めて出してもらうのです」といった。この祠の側に文政10年(1827)に作られた長府の儒学者小田圭の碑文があった。

 あの福浦のところを俯観台といいますが、ここから見た福浦湾の景色がいかにいいところかということをこの学者である小田圭、名文家ですね。

その祠に登る石段はまだすっかりできあがってはいなかったが、できているところを調べてみると新旧の石が混じっている。少しずつ工事を進めて仕上げに至る作業のようなもので、たずねてみると思ったとおりだった。灯籠の油銭と同じで、その時々繋泊中の船舶からの寄付金によって作られるのだという。すでにできている石段だけでも百六十余段もある。完成したら二百段ばかりにもなろうという話である。一段の高さを七寸として計算すると、直立十四丈(43メートル)の高さになる。

spe6_7.jpg (17596 バイト) 福浦を出船して田ノ首に着く。山床の鼻(山底の鼻)にある八幡宮(田ノ首八幡宮のこと)の上の台場を検視したがまだ築造に着手していない。田ノ首の田地は数区に別れ人家は七十戸あった。

 船に乗って巌流島に渡った。この島は佐々木巌柳(巌流)と宮本武蔵が剣を争い、巌流が打たれて果てたというゆかりの地で、巌流の墓がある(これは巌流島にある龍神・地神の石を巌流の墓と吉田松陰が思ったものと思われるが、この石が巌流の墓かどうかは不明。ちなみに現在一般に知られている巌流の石碑は明治40年に作られたもので墓とは関係ない)。ここでいったん宿に帰り、昼食を取った。
 また小舟で出て、小瀬戸(俗に小門ともいう伊崎と彦島の間の狭い海峡で、今は埋め立て地続きとなり、入り江を利用した恰好の漁港となっている)を通って、西山の番所に行った。砲術家の山県東馬(やまがたとうま)と中村寮平が在勤していた。兵器庫が二つあったので中に入って大砲を検視した。終わってから船に乗り、尾衛(おえ・彦島老の山)の台場を見た。山頂でのさんたの築造が着工されていた。
 西山に行くまで小瀬戸の流れは順潮ではなかった。さて船で帰る段になると月が出、潮は満ち逆潮となった。だが小舟は本土(伊崎)の物で潮流や岩礁の状況に詳しいから渦巻く逆潮に誤って押し流されたり岩にぶつけたりするようなことは全くなかった。

7月17日
 船で亀山、壇ノ浦の台場をあらため、上の山(火の山?)を仰ぎ見た。壇ノ浦は寂しい小さな浦里で人家が三、四十戸もあろうか。この近くの山頂に灯籠があるが福浦のに似ている。

 この灯籠は下関の伝説で今、日和山公園にありますつかずの灯籠のことを言うんです。この灯籠をその当時騎兵隊というのがありました。これは高杉晋作が作りました。もう一つは長府藩で作った報国隊というのがありました。この報国隊が灯籠を立てようとして大八車に乗せていくときにある料亭の角にぶつけて料亭のおやじさんが出てきて「お前ら何をするか」と文句を言ったところ、報国隊はやにわに刀を抜いて斬りつけて殺してしまったそうなんです。それで、灯籠を予定地に持っていって点けようとしたが点かない。それが明治になって昭和になって、昭和の8年に日和山公園に灯籠を持っていってそれがつかずの灯籠となって今でも立派な灯籠があります。

 対岸の門司に渡り城山の麓に船を寄せて潮流が航行に良くなるのを待つのに数時間かかった。昼食をすまし、海上をあれこれと見て、福浦の手前まで来たが、潮がすでに落ちて船を進めるのにさんざん苦労した末、とうとう進むことができずに、引退いて帰った。海峡の潮流は起るときは東から西へ流れ、落ちるときはこの反対となる。
 この日林八左衛門、三浦与衛門らが船にやってきて同行した。

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