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ふるさと彦島の歴史を学ぶ集い その2 文学の世界から見た彦島 □イントロダクション □廻浦紀略 彦島到達まで 彦島での足跡 萩へ
ふるさと彦島の歴史を学ぶ集い その2 −文学の世界から見た彦島−
■廻浦紀略(萩へ)■ 講師 元下関市市立図書館館長 野村 忠司 氏 1998年2月21日 於塩浜町民館 主催:彦島第五自治連合会
7月18日 宿の関屋松兵衛宅のすぐ近くにある厳島の祠(伊崎の厳島神社)に参拝し、すぐ裏手に続く日和山(伊崎の日和山)にのぼった。さらに山越して海浜に出、俗に言う身投げ岩についた。ここは会所の軽卒(下級の武士)が集合して、沖の海上を監視するところという。そこから筋が浜を過ぎて大坪の金比羅山の狼煙場に登った。ここは武久が目の前に見下ろせ、遙か北浦の海が見える。金比羅を下ってから会所に行き、兵器庫を検視した。 宿に帰って昼食をとり、小舟で出発して丸山八幡宮の下に着船し八幡社に参拝した。ここから船を帰して、徒歩で神社の左手の道を下り、阿弥陀寺(今の赤間神宮)に行った。寺で絵説き(絵解きの屏風が宝物館に残っています)を聞き、宝物を見た。近くの伊藤杢之助(いとうもくのすけ・下関の本陣、大年寄)の家に行き、頼龍三郎にめぐり会い、共に小舟に乗って潮にそうて下り、宿に帰った。 伊藤家本陣なんですがたとえば殿様がお泊まりになって休憩したりとか、今で言うところの連合自治会長さんといったほうがいいでしょうか。もう一人、佐藤さんという大年寄りがいらっしゃいました。住民の悩みを聞いたり時にはお金を貸したりもしていました。伊藤家には坂本龍馬をはじめとして、さかのぼればシーボルトといったいろんな方が、そういう家なんです。今春帆楼がありますけれどもその左手の方に表札が出ております。伊藤家本陣跡という表示が出ています。客間が何十もあるような立派な家でした。 7月19日 朝、宿を出て、(伊崎の町筋を通って、小門海辺にある)鰯松の下を過ぎ、小門の御船倉を検視した。船は十三隻あった。 午後、会所に生き別れを告げ、伊崎の家もたずねた。伊藤の家では数時間というもの話し込んでしまった。その折り、伊藤が「関、新地、伊崎、竹崎合わせて人家は一万戸、寺は三十五カ所ある」といった。 高杉晋作が廻転義挙を行った、三条実美(さんじょうさねとみ)らの長府の功山寺に一緒に泊まっておりました元治元年1864年12月15日「長州男児の肝っ玉をお見せします」ということで、それが廻転義挙なんです。そのときは長州藩の中は乱れに乱れていたんですが、幕府に寄り添わなければいけないのと、尊皇倒幕に行くという高杉やら伊藤やら井上やら山県やら、それで、しかし行動を起こそうというときに高杉がたったの4〜50騎といわれていますが、ごきょうにご挨拶をして野久留米街道まず新地会所を襲うんです。この新地会所というのは藩の会所なんです。会所というのはいろんなお米も管理するし、お金も用意しているところで、米とか金とかを高杉晋作らが奪って萩に攻め寄せていくというのが明治維新の幕開けになっていくわけなんです。明治維新を作っていくときの一番最初の元になっているわけです。 7月20日 船で赤間関を出発した。小瀬戸の狭い海峡を通り過ぎた。このあたりは、海岸が険しい岩続きで赤田村までずっとそうだった。綾羅木から安岡を過ぎ、吉見浦に着くまでは海辺は浜つづきの平らかさである。馬関の形勢は沿岸一帯の人家が櫛の歯のようにぎっしりと並び、その後面は山である。ただし高い山や険しい山はない。 この当時は小瀬戸から大瀬戸、関門海峡へ向かって潮が流れていたわけです。流れが速い所なんですね。水門ができたのが昭和10年でしたから、それまでは流れがあったわけですから、その前に大正時代に埋め立てをやりますよね大和町(やまとまち)の。で、水門を作って仕切るわけです。それまでは流れが速くてとてもおいしい魚なんかが鯛とか鰺とかそういうのがいて、小門の夜焚というのを聞いたことがあるかと思います。篝火を焚いて、集魚灯のかわりですね。魚がそれに集まってきてそれを捕って船の上で料理して食べるという、有名な、長良川の鵜飼いと同じくらいの観光資源だったんですけど、それがなくなっていきましたね。 それからもう一つはご存じでしょうけれど埋め立てをして大和町ができまして、大和町は何でそう言う名前が付いたかというと、大正時代から計画をして昭和になって埋め立てが完了したので大正の「大」と昭和の「和」をとって大和町という地名がついたんです。 このあと2回にわたってペリーが日本にやってくるわけです。どうしても港を開きなさいということで仕方なく、朝廷の許しを受けずに日米和親条約というのを結びます。で、誰が結んだかというと、彦根藩の藩主である井伊直弼がこれを行うんです。そうすると尊王攘夷派というのは、すなわち高杉や山県ら薩摩藩やらは井伊直弼を暗殺するんです。その前に井伊直弼が安政の大獄をやるわけです。で、そういう攘夷思想のものを一網打尽にしてしまった、そして処刑したのですが、その処刑の中に吉田松陰が実はいたんです。 時代というのは不思議なもので、吉田松陰はせっかくこの沿岸の海防をやっていて、時代というのは外国に解放を迫られ、攘夷思想のものが弾圧され、そうはいいながら吉田松陰は船に乗り込んでアメリカに行こうとしているんですね。幕府の要人も高杉らに指令して「暗殺しろ」などと言ったりもしています。当時とすれば、そういう政治状況だったと思うんですが、いろんな形で門下生に刺激を与えているということができると思います。吉田松陰も30歳で刑死しているんですが、この人は正直といえば正直なんですが、幕府は吉田松陰の一命を助けようという動きもあったのですが自分から間部詮勝(まなべあきかつ)というんですが幕府の要人を暗殺しろ、と司令を出しましたと、取り調べの時にちゃんと白状しているんですね。黙っていればいいのに。それで心象を害して処刑のリストに入れられてしまうんです。 安岡の箙山(えびらやま)以北は高山が連綿と続いている。海岸は二、三カ所もの崖裾が突きだしているだけ。吉見の港に入ると左に網代山(あじろやま)右に櫛の山が向かい合っている。ここには寺が六つある。浄専寺、浄満寺というのがあったが、その他の名はたずねてみなかった。このへんの漁船も肥中(ひじゅう)のに似ている。値段は十二、三両で8年分の生活費に相当するという。これら漁船はたいてい馬関で作るそうだ。 上陸して宿に泊まった。 以上六日間にわたって松陰が下関に滞在、巡視を重ねたのだが、下関を去ってから三日目の7月23日の七ツ時(午後4時)に二十日間に渡る北浦海岸の巡視を終え、萩の御船倉に帰り着いたのである。 おわり