服部明子の平家物語研究室

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■ <対談>義経の大坂峠越え

服部 明子 「今回は義経の大坂峠越えで、その大坂峠に因んだお題で綴りたいと思います。」

千葉 江州  「徳島と香川の県境は阿讃山地で仕切られており、どうしも峠越えしなければ讃岐には抜けることができなかったのです。だいたい阿波から讃岐へ抜ける道は8つほどあったようです。東から順に
・ 鳴門からぐるりと北東方面の海岸を大回りして引田から讃岐に入る道
・ 大坂峠を越えて引田に入る道
・ 御所から鵜峠を越えて白鳥に入る道
・ 市場町から日開谷を抜けて白鳥に入る道
・ うだつで有名な脇町から相栗峠を越えて直接高松に入る道
・ 三野から真鈴峠を越えて塩江に抜ける道
・ 箸蔵寺から満濃池へ抜ける道
・ 池田から猪ノ鼻峠を越えて善通寺に入る道
があり、義経は大坂峠を越えたと伝えられています。
近藤七が源氏に荷担したことが記録に残されていますが、彼は板野郡の有力な豪族だったようで、ちょうど大坂峠の入り口に当たる辺が勢力範囲に近かったのでしょう。現在でもこのJR板野駅から川端駅に至る地域には坂東さんや近藤さんといった苗字が多く点在していますね。ちなみにテレビでお馴染みの板東英二さんの実家もこの近くにあったようです。少しややこしいのですが徳島には木偏の板東と土偏の坂東の苗字が混在しているのです。
近藤七が道案内役となって大坂峠を越えると後は山地伝いに行動を秘匿して進めば長尾までは索敵にも掛からずに接近できたで筈です。更に長尾から北へ進路を取ると讃岐平野が広がる平地ですので屋島まで一気呵成に攻め込めたことでしょう。土地に詳しい人間さえ味方に着いていればこそ、そういう芸当ができたんだと思います。
平家も敵が一番楽に来られる鳴門引田ルートか本州からの海上ルートだろうと想定して防衛線を張っていた筈ですから、険しい峠道をわざわざ選んで義経率いる馬群が短期間で攻め寄せてこようとは夢にだに思っていなかったことでしょう。
この大坂峠は幽霊車が後を付けてくる場所としても有名だそうです。サイドミラーやバックミラーに黒っぽい車が写って見えるのですが、くねくねとした峠道を走って見晴らしのよいところで車を止めていて、いつまで経っても後続車が来なくてぞっとしたというような話をまことしやかに喧伝していますね。
高速道路や鉄道が整備されて板野から引田へ抜けるのに利用されるにつれ、やがて大坂峠も誰も通らなくなって朽ちていくことになるでしょうが、それも歴史の顛末のようで何か切ないものがありますね。」

服部 明子 「上記8通りの道を、地図を見ながら、阿波と讃岐の位置関係を確かめてみました。引田は<ヒケタ>って読むんですねぇ。私は以前土讃線で善通寺から池田に行ったのか、と再認識しました。<池田>って野球で一躍有名になった山の中の小さな町ですが、たいしたものだと感心したのを久し振りに思い出しました。維新の時に土佐から回転の志を持った下級武士の青年達が取ったのは池田から猪ノ鼻峠に出て善通寺に出るコースだったのだろうな、と空想が広がりました。平家の武士は当然正面から義経の軍がやって来ると思っていたでしょうね。でも
圧倒的な大軍を相手にするには敵の意表を衝くに限るという義経の作戦があった訳ですね。なんとなく、劣勢の義経の軍の様子というのが見えた気がしました。」


千葉 江州 「幕末の志士達ですが四国の片田舎から京や江戸に飛び出していったのは明子様のご指摘のようだったんじゃないでしょうか。志士達は追手から必死に逃れるために重い足を引き摺りながらもひたすら峠を目指して歩を進めていたのでしょうね。少し徳島を離れて対岸の本州へ渡って義経の跡を追ってみたいと思います。」

服部 明子 「はい、お願いします。」

千葉 江州 「私が生まれ育ったのは大阪だったのですが、大阪も西側の兵庫県寄りのところで、阪神電車で数駅いくと大物でした。大物でピンとこられる方はかなり歴史通ですね。
そうです。義経がここから2度出航しているのです。1度目は屋島の平家攻めで四国に渡った時で、2度目は鎌倉の追討軍から逃れるために九州へ渡るための時でしたよね。御存知のように2度目も悪天候下で出航を試みたのですが、直ぐに座礁転覆して再上陸を余儀なくされています。さすがに2度目は天候も味方に回ってくれなかったようですね。
長年の土砂の堆積でこの付近も随分陸地が繋がり、海側へせせり出してきた経緯があるものですから、昔の地形はなかなか想像できないのですが、大阪も上町台地より西側は湿地で点々と洲や島がある寒村との記録が残されています。同じように大物の辺りも随分陸地に入ったところに港があったことでしょう。
地名からも想像されるのですが、付近には酉島、四貫島、出来島、佃、千舟、杭瀬、長洲、浜、潮江、築地といった海辺に因んだような名称がごろごろして近在しています。そう言えば小学校の校歌の一節に「葦が茂れる」や「通う千鳥」というような語句が入っており、かつてこの辺は海辺だったんだぞと伝えるような歌詞だったころを思い出しました。
大物の浦は義経らの時代、この辺りでは非常に開けていた場所だったと想像するのですが、ここを過ぎると西へは福原まで行かないと賑やかなところはなかったのかもしれませんね。東を見ても難波辺りの旧都跡まで行かないと人の気配は少なかったことでしょう。大阪が賑やかになるのはやはり太閤秀吉の時代を待たねばならなかったのですから。
それでも船が難破して岸に辿り着けさえすれば、あとは葦の生い茂る岸辺に身を隠して逃亡すれば鎌倉の追討軍に捕縛されることはなかったのですから。それでも一旦散り散りになってしまうと櫛が抜けるように捕縛されてゆき、奥州落ちも本当にわずかな供回りしか残っていなかったのでしょうね。
義経の時代以降歴史に再び大物が登場するのは南北朝時代を待たねばなりませんが、義経の明暗を分けた土地として私も子供の頃から記憶しています。」

服部 明子 「尼崎に「大物」駅があって驚きました。あぁ、ここから船出しようとしたのか、と。
近くには「和田岬」があって、ここは南北朝の楠木正成関連で知られていますね。一の谷やらヒヨドリ越え、須磨などのお話も楽しみにしております。源平時代は、淡路島がすぐ目の前にあって、なかなかの要衝と思いますが。」




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