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■■■■江ノ浦(Enoura)
本村、現在の水門付近から、三菱重工業下関造船所にかけての海岸線はかつては「堀越」「江合の浦」のふたつの大きな入り江がありましたが、天保10年(1839)に北側の堀越の入り江が埋め立てられ、数年後に水田として使用されました。江合の浦は明治28年に河野、植田、冨田、市川らによって27,000坪が埋め立てられ、石炭集積地として活用されました。
まさかとは思いましたが本当にあったのですね・・彦島、江ノ浦に関するホームページが。私46歳の中年のおじさんですが、小学校3年生まで山口県下関市に住んでいまして、江ノ浦小学校に通っていました。当時はかなりのこまったちゃんで随分先生を困らせていたことを覚えています。
父の仕事の関係で大阪に引越しすることになったときは、給食の時間に先生がオルガンを引きながら(当時は給食の時間によくある光景です)笑顔を浮かべながらそのことを他の生徒につたえていたことをいまだに忘れられません。
大阪の北鶴橋小学校に転校してきた当初は、その独特ななまりのためにかなりひやかされましたが、持ち前の負けん気で徹底的に対抗したものです。
あれから38〜39年、この歳になって最近無性に帰ってみたいのです。もう当地には身内も誰もいませんがそれでも今の彦島、江ノ浦(小学校)をたずねてみたいのです。でもなかなか思うようにはいきません。故郷に関すること、それからできれば江ノ浦小学校に通っている生徒からの近況などどんなことでもいいですから教えて頂けないでしょうか。お待ちしています。
大阪市在住 星本 様 (2001.06.28)
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