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準備中
六人武者の海賊は次第に力を持ち、近くの土地や船を襲うようになりました。そこでとうとう攻め打つことになり、九州豊前(今の小倉)から兵150人、船63隻が福浦の江良に上陸しました。福浦に「六十三隻江良」という地名が残っていますが、これはそのとき、舟が着いたところを言います。また、南風泊(はえどまり)の「きかんが藻」という地名は、戦が始まる前、六人武者の様子を調べに来た豊前の兵が一隻の漁船に、
とたずねたところ、その漁師は、後のたたりが恐ろしいので何を訊ねられても「聞かぬ、聞かぬ、」というふうに首を振って答えなかったところからつけられたと言われています。 さて、いよいよ竹ノ子島の戦いとなりました。百五十人対六人でしたが六人の武者は、いろいろな戦法で敵を引っかき回し、さんざんに懲らしめ、豊前側の死傷者は見る間に増えていきました。「鶴の江良」「仁蔵の江良」という地名は、そのとき六人武者から殺された鶴五郎、仁蔵の死んだ場所といわれます。こうして総崩れした敵兵は、あわてふためいて田の首の岬まで逃れ、ようやく豊前方の助け船に乗り九州へ逃げ帰りました。 六人武者はこれ以上追い打ちはしませんでしたが、この戦で勇敢に戦って死んだ鶴五郎、仁蔵の首をこの地の他の中に埋めてあつく供養をしました。「田の首」の地名はそこから来ていると言われています。 その後、六人武者はひとまず王城山に引き上げましたが、今度の戦で平家残党ということが知れたため、必ず大きな逆襲のあることを予想し、五人の家来はそれぞれ姿を変えて遠く後へ別れ別れに離れていき、四郎太夫の子だけがこの地に残り、後に漁師となって一生を送ったということです。
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